2009-02-28

離婚後300日問題を最初に取り上げた記事

「しんぶん赤旗」2006年2月3日版

離婚後300日問題をマスメディアの中で最も積極的に取り上げた(取り上げている)のは、毎日新聞です。しかし、『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』の38頁には、それよりも早くしんぶん赤旗がこの問題を報じていたことが示唆されています。それが、恐らくこの画像の記事です。

大学図書館にあるだろうと思ったのに、無く、協定校である慶應義塾図書館にはあることがわかったものの、遠い・・・。そこで、日本共産党新宿地区委員会というところに電話で問い合わせてみたところ、この画像を送ってもらえました。

ありがとうございました。

2009-02-27

和光

四月からの勤務先が和光になったみたいです。とりあえずご報告まで。

2009-02-26

「愛」とは何か

ありがたいことに、このブログの記事コメントをいただきました。そのコメントの中のご質問が、ちょっとその記事の本論から外れて、しかし重要な話題だと思うので、新たに記事を作成してみました。

とは何か。普遍的な意味でとは何かを考えるには、ぼくは不勉強すぎるので、ここでは、自分にとって愛とは何かを考えてみたいと思います。しかも、という言葉・概念はあまり普段の自分の生活に縁のないものなので、自分が意識的・無意識的に信条にしているものの中から、自分にとってのの手がかりを探してみたいと思います。

まず、自分が大事に考えている行動原則は、自分のために生きるということです。それについても説明しようとすると、また長くなりそうなので、ここでは措いておきます。ただ、このことは、自分の行動原則であるとともに、人間の本質なのではないかと自分は考えています。いずれにせよ、大事なのは、そのような行動原則がありながら、一見それに反する行動を取ることがある、ということです。

類型としては、一つ、戦略的な行動が挙げられると思います。一見自分のためにならないようでも、結果的に自分のためになると(意識的・無意識的に)思ってやっている、ということです。情けは人のためならず、ということですね。

一見自分のために生きるという行動原則に反する類型は、まだあるような気がします。一つには、主にモノに向かうもの。そんなことをやっても何の得にもならないのに、なぜそんなことをするのか、と傍から見れば首を傾げたくなるようなことは、自分に限らず、誰にでもあることなのではないでしょうか。少なくとも自分に関しては、そのような場合は、だいたい自己認識やアイデンティティと関係のある場合が多いような気がします。自分に利益があるかどうかはともかく、それをやるのが自分であり、そうでなければ自分でなくなってしまう、ということです。極端に言えば。でも、それも、アイデンティティの保持という精神的利益がある、と言えるような気もしますけどね。

アイデンティティの保持と対照的に、主にヒトに向かうものも、あるでしょう。結論から言いますと、自分にとってのに一番近いのは、これなのではないかと思います。そんなことをやっても何の得にもならないのに、なぜその人にそんなことをするのか。礼儀や敬意に関する事柄を除くと、アイデンティティの観点から説明できることは多くないように思います。では、なぜそんなことが起こり得るのか。共感が原因である、と考えてみては、どうでしょう。例えば嬉しいという感情。その人が嬉しいということが理解できるということではないのです。その人が嬉しい(と思っていると自分が認識する)ことが即ち自分が嬉しいことなのです。

・・・。

あぁ、よくわからない。ここに書いたことは、実際の自分には、殆ど一致してないかも知れません。その場合は、遠慮なく言って下さい。

2009-02-23

「無限軌道」

昨日、家族で話していて、サングラスの話になりました。それも、単なるサングラスではなく、鏡のように反射するサングラスはどうか、と。そこで自分が、TULIPのアルバムのジャケットにそんなサングラスが写ったのがあるよね?と言ったけども、知る人は無し。

調べてみたら、それは無限軌道というアルバムでした。確かに家で聴いたことはないし、いや家の外でも聴いたことがありません。曲目を見ても、知ってる曲は11曲中2曲しかない。いつか、聴いてみましょうか。

2009-02-21

不確定債務

親が、債務を第三者弁済するようです。その債務は、確定したものではないのに。今回のケースは、民事訴訟の訴訟要件にも適合すると思うんですけども。

司法制度改革によって、司法が身近になったら、こういう場合にもちゃんと司法を活用出来るようになるのでしょうか。

それにしても、彼らは、暴力的にとは言わないけども、出来る限りの手段を尽くして、自力救済を果たした、と思います。

訴えないことがやさしさ?やっぱり、司法というのは、そこまで嫌われ者なのでしょうか。

自分はなんて親不孝なんでしょう。

具体的な説明を省いてしまってすみません。

2009-02-20

Windows Live スペースにブログ記事を投稿できない

久しぶりにWindows Live スペースにブログ記事を投稿しようと思ったのですが。SeaMonkeyでも、Operaでも、できませんでした。

SeaMonkeyでの投稿画面 SeaMonkeyでの症状は、こんな感じです。タイトルも本文も記入しているのに、記事の投稿というリンクが有効になりません。それどころか、下書きとして保存すらできません。過去にはで同様の症状が発生したらしいですが、同じ原因なのでしょうか。

Operaでの投稿画面Operaの場合は、こんな感じです。各リンクが有効にならないだけでなく、そもそも本文の記入欄が表示されません。いったいどうしたことでしょう。

さて、付随的違憲審査制ではありませんが、今回このようにWindows Live スペースの症状を訴えるのも、具体的に投稿しようと思った記事があり、それを投稿するという利益があったからなわけです。では、その記事とはどんなものだったか。

香港の知人から、Climate Change to Social Changeという、企画書のような、発表資料のような、PDFファイルが届いたのです。メールの文面によると、どうやらそれについての意見・感想が求められているみたいでした。しかし、そんなこと言っても、主催者・責任者が誰なのかよくわからないし、目的や達成目標が何なのかもよくわからないし。わからないのは自分の英語力の問題なのかも知れないけど、とにかくよくわかりません。どうしましょう。てな感じのことを書こうかなぁと。

2009-02-19

OpenOffice.org3.0導入

24号館AルームOpenOffice.org3.0が導入されていました。ついでに、Firefox2.0から3.0.4にアップグレードされてました。まだアプリケーション一覧は更新されてませんが、そのうちに更新されるのでしょう。アプリケーション一覧にはまだ標準環境として記載されているStarSuite 8も、実際にはユーザーデータなどを除いて削除されています。

三日間閉室していたのはこういうアプリケーションの導入作業だったのか、な。22号館端末室もメンテナンスのための閉室が予定されているみたいだし、他の端末室にも、順次導入されていくのでしょう。

2009-02-18

「スピード離婚しないための婚活とは?!」

せっかく結婚しても失敗してしまう婚活とは、一体何だと思いますか?そうズバリ、「結婚をゴール」として考えてしまう人です!

そもそも結婚とは二人で歩んでいく新たな人生のあくまでもスタートラインでしかありません。

確かにその通り。同感です。

結婚する直前の3ヶ月前からは一緒に暮らし始めることもオススメです。ダラダラした進展のない同棲はNGですが、結婚が決まった場合に相手と自分の相性の最終ジャッジの場として一緒に住むことは、よりお互いの人間性がよりわかりますので。

ふむふむ。なるほど。しかし、ダラダラした進展のないとは、どのようなことを指すんだろう??

幸せな結婚生活を送るための婚活で相手を見るべき点は「人間性」、「経済力」、「将来性」、「共通のビジョン」の4つです!

なるほど。確かに、これらの要素が合わない人とともに暮らすのは、苦労しそうだ。しかし、共通のビジョン以外は、方向性の問題というよりは程度・水準の問題と思われます。これらの要素について水準の低い人は、浮かばれないということでしょうか。寂しい。

いや、でも、そんなに全水準の高い、理想的な人なんてあまり多くはないのでは?これらの基準は、実際には、苦労することになりそうだけどそれでも一緒になりたいのか、という風に、愛の強さや将来についての覚悟を問うもの、と考える方が現実的なのかも知れませんね。

2009-02-17

インド料理「ファリダバッド」

店長に言われて、店長の親友のとあるネパールの人の開店準備の手伝いに行って来ました。でも一時期料理人のチーフのような感じで働いていたことのある人だけれども。その頃、店長はその人のおかげでカレーがおいしくなった、とよく言っていたような気がします。

さて、開店準備の手伝いに行ったのは昨日で、一日だけなのですが、六時過ぎに行った時は、日本人のおじさんが来ていて、何やらずっと調味料やら調度品やらをお勧めしていたようでした。しかも、それと並行して、インド人ぽい人たちが三人ほど、ずっと談笑していました。自分としては、誰だコイツラ!?て感じでしたが、まぁそれはいいとして。日本人の人にこんな言い方をしては失礼ですね。八時頃には、店のスタッフの三人の人(前述の料理人さんと、その人と共同で店を経営する人と、料理人さんの友人だという雇われ料理人さん)と自分だけになってたと思います。

さて、このお店、まだ開店前だということもあって、ウェブ上には何も情報が出てません。店情報、本邦初公開!?

インド料理ファリダバッド

  • 東京都大田区蒲田5-43-6(一階)
  • 電話・FAX:03-3736-2811
  • 昼:開店11:30~ラストオーダー14:30
  • 夜:開店17:00~ラストオーダー22:00(土日祝21:00)
  • JR蒲田駅から:東口を出ると線路に平行する大きな通りがありますが、その通りよりも一本奥の同じく平行している感じの道を右方向へ数区画分歩いたところ。
  • JR蒲田駅から徒歩2分、京急蒲田駅から徒歩10分(共同経営者さん談)。
  • ファリダバッドというのは、インドの地名だそうです。店のスタッフの人とは特に縁があるというわけではないそうです。

開店準備の後にカレー(と御飯)をいただきましたが、おいしいです。是非、立ち寄ってみてください。

2009-02-16

「一本の傘」

TULIPのアルバムTULIP SINGLES 24 1972-1984より、一本の傘

東京へは、もう何度も行きましたねという曲に似てると思いました。マイペース東京という曲でした。

どちらが古いのかと思ったら、両方1974年のようなので、まぁ当時の一般的な雰囲気、ということなのかな。

2009-02-15

このブログをウェブ検索

ふと思い立って、panda3676.blogspot.comウェブ検索してみました。このブログ内以外で引っ掛かったのは、ほぼ2ちゃんねるのみ。そのうちウェブ検索にも引っ掛からなくなるでしょうから、ちょっと引用してみましょう。ちなみに、このページがキャッシュされたのは2009年2月9日5時23分44秒(日本時間)だそうです。

500 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 21:07:41
桃太郎の質問について、結局この人は自分の何をPRしたかったんだ?
http://panda3676.blogspot.com/2008/01/blog-post.html
501 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 21:14:46
501
502 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 22:05:38
鬼が島に付いていった犬自身が書きそうだなw
503 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 22:34:27
>>500
何か自己PRになってないね。他の日の記事見たらこの人早稲田みたいだけど、早稲田にもこんな文章書く人いるんだ。
>この犬は、自分と同じように気が利かないのだろうと思います。
要するに設問は「あなたはどんな人なんですか」ってのを訊いてるのに、なんでこんな他人事みたいな表現をするんだろう。書くとしたら、
「自分はこの犬と同じように気が利かない~」
だろうに。
というか、
  • 正しい事でも多数派になると自分が加わる必要性を見いだせない
  • 気が利かない
とかネガティブなことばっか書いてどうするw
504 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 22:44:04
このブログはわろた
505 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 22:58:16
さすがにこれはただの走り書きだろうw
これじゃあ「私は集団行動が出来ない人間です」ってアピール文じゃないかw
506 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/08(日) 22:58:20
>>500のおかげで目が覚めたわ、ありがたや
508 :就職戦線異状名無しさん:2009/02/09(月) 01:59:57
>>500
この人ES通ったのかな?

よく見たら、投稿日はつい最近。一年も前の記事のことを論評してもらえること自体が、ありがたいことです。やはり公開していた価値があったというものでしょう。それはそうと、ここで指摘された内容について、本人として、振り返ってみましょう。

要するに設問はあなたはどんな人なんですかということを訊いている。
勿論それも大事だと思います。でも、それだけでなく、物語中ではあまり性格の描写されない各登場人物・動物の行動からいかにその性格を読み取るか、という発想力を問われているものでもあるのではないでしょうか。それもどんな人かという問いに含まれてしまうと言ってしまえばそれまでですが、この独特の設題の固有の意義はそこにあり、だからこそ他の点よりも重要なのではないかと思います。そして、その発想力という点は、自分にとっても、よりPRしたい点でした。
最終的に、犬を主語にするのではなく自分を主語にするべき。
自分を主語にすると自分は気が利かないと直で言うことになり、さすがに気が引けた、ということもあったと思います。どちらを主語にしても実質的な意味は変わらないと思いますが、前述の発想力という点を重視するなら、重要なのは犬の行動から何を読み取るか、であり、むしろ主語は犬であって然るべきであるようにも思えます。
ネガティヴなことばかり書いている。
前述の通り発想力という点を重視するなら、その要素がポジティヴかネガティヴかという違いは、本質的には重要ではないでしょう。それよりも、より多くの角度から性格を読み取ることが重要かも知れません。また、ネガティヴなことを書くということは、謙虚(≒素直)であることを示すことでもあると思います。そうだとすれば、ネガティヴなことを書くことが一概にネガティヴな効果をもたらすとも言えないでしょう。
自分の何をPRしたいのか不明瞭。
普通に読んでも、正義感(但し誤った正義感が悲惨な結末につながる例が多くあるようですし、正義感については慎重さも持ち合わせていなければならないと思います)、頑張る人を応援する気持ち、(単純作業でも)率先して仕事に取り掛かること、といった辺りは読み取れるはずと思います。勿論、それが本当かどうかは面接を通じて判断してもらうしかないのだけれど。そして、前述の通り発想力謙虚さ。そもそも必ずしもこの設題が明示的な自己PRを要求しているとは思わない上に、明示的な自己PRの要素もそれなりに出ていると思います。
「集団行動が出来ない人間」と読み取れてしまう。
この文を読んで必ずしもそう感じるとは限らないと自分自身は思うんだけれども・・・。しかし、岡目八目と言います。ただ、一口に集団行動と言っても、すべき集団行動とすべきではない集団行動があるのは、確かでしょう。倫理的にも、経営的にも。さすがに集団行動が出来ないのでは問題があるのかも知れませんが、しないのであれば、それは必ずしも良くないとは言えないでしょう。

全体を通じて思い出したことは、このエントリーシートを通してくれるような会社で働きたいと思っていたことです。例えば、設問を字義通り受け取るか、深読みするか。自分は、会社側も考えがあってこの文言にしているのだから、それに素直に従うべきだと思います。尤も、日常生活レベルでは、いや試験レベルでも、あまり深く考えずに文言を決めていることがあるような気もしますが。勿論、問題文を深読みさせようとしている会社もあるでしょう。しかし、そのようなやり方は、社内の文化として推測されます。普段から書類にはこう書いてあるけど本当はこうなんだよという解釈改憲がまかり通る会社よりは、それがより少ない会社の方に受かりたいし、行きたいと思います。

最後に。
>>508
通りました。

2009-02-13

学術総合報告書

今回は、ALSAへの提案です。ALSAへの、とは言っても、実質的には日本のALSAへの提案です。全体では、ここで述べる問題意識が問題となる程度にまで活動水準が達していないと思うからです。

では、この提案の前提となる問題意識は、どんなものか。一つは、日本のALSAで行っている学術活動の全体像がなかなか見えにくい、ということです。ALSAを、学術活動を行う団体と位置づけるなら(但しこれ自体も必ずしも自明な命題ではありませんが)、ではどんな学術活動を行っているのか、という説明は必然的に必要になってくるでしょう。現状でも、こんな企画をやっている、という説明はできるでしょう。しかし、そこで実際にどのような学術的成果が上がっているのか、と考えると、現状では全くと言っていいほど整理されていないのではないかと思います。

もう一つの問題意識は、特に組織としての成長に関わることです。規模だけでなく、学術活動の内容としても成長をしたいと考えるのならば、過去の活動を評価・分析し、現状を認識しすることが第一歩なのではないかと思います。それを踏まえてこそ、一段と高い目標を設定でき、それを達成することで学術活動の質を向上できるのではないでしょうか。自分には、今までのALSAにはこの評価・改善の循環が見られなかったように思われるのです。

さて、以上のような問題意識に基づく提案学術総合報告書ですが、その内容の核心部分は、至って単純です。管轄内の学術活動をすべて網羅して、学術的議論の中身に特化した報告書を作る、ということです。例えばディスカッションであれば、出てきた意見・質問を、すべて記録しつつ、それぞれの意義を確認する、というようなことになるでしょう。ディベートであってもそれはほぼ同じで、両陣営の発言・質問を記録して整理することになると思います。ただ、ディベートの場合は(ディスカッションでも場合によってはそうかも知れませんが)、実際の発言・質問は準備してきたもののほんの一部、ということも多いでしょう。その点を鑑みると、将来的には、準備段階の過程も含めて記録・整理できるようになるとよいのかも知れません。これに加えるなら、その企画・活動の学術的目標とその達成度についても触れられるとよいかも知れません。

最後に、学術活動をすべて網羅と言いましたが、その具体的なイメージを挙げてみます。統括者も学術活動の枠組みは把握していると思いますが、実際の担当者が文責を担うのがふさわしいのではないかと思います。

  • LCレベルで編纂する場合
    1. 第_回AA
    2. 第_回CCP
      1. 第_回事前勉強会
      2. 本番
    3. 早稲田祭
      1. 第_回事前勉強会
      2. 本番
    4. _講演会
  • NCレベルで編纂する場合
    1. STfrom_
      1. 社会見学
      2. テーブル_
    2. 第_回AI
      1. テーブル_
    3. NCIB主催企画への派遣
      1. STin_
        1. 社会見学
        2. テーブル_
      2. AF
        1. 社会見学
        2. テーブル_
        3. ディベート・模擬裁判
      3. AC
        1. 社会見学
        2. テーブル_
        3. ディベート・模擬裁判

2009-02-11

海外旅行に行こうと思ったけどやめた

友人三人で企画されていたものに加えさせてもらう形で、欧州旅行に行こうかという話が出ていました。一週間くらい前からです。経路はフランス(パリ)からイタリアにかけて、日程は2月23日から3月上旬にかけて、ただ自分は3月は1日から所用があるため2月中に離脱、というような予定で話をしておりました。そして、いずれにせよ航空券は自分で手配することになるし、宿や交通手段にしても、ある程度は自分で情報収集しておきたいと思い、調べていました。

ありました、ぼくの目に留まったものが。トラベルジグソー。レンタカー屋さんらしく、自動で見積もりをしてもらった限りでは、かなり安そうです。交通標識のあまり読めないところで運転することや、右側通行とか、不安はありました。それに、「国外運転免許証」取得にも手数料が2650円かかるそうです。しかし!!日本では、(高級車じゃなくても)ヨーロッパ車を運転する機会なんてまずないし、マニュアル車を運転する機会もない。クルマ利用によって旅の選択肢が広がることは国内旅行で体験済みだし、車中泊もできます。なんだか、レンタカー使用、これはヨーロッパ旅行に行く上で外せない条件に思えてきました。でも、おれの運転は危ないからやだ、なんて言われるんだろうな・・・。

案の定、レンタカー使用案は却下、ということで。この却下という言葉は、実質的な判断・議論をする前に門前払いをするという意味だと思うので、(日常用語としては)好かないけれども、まぁそれは置いておくとして。それでも、迷って、宿をどうするか、交通手段をどうするか、と聞いてみたけども、結局、参加を取りやめることにしてしまいました。宿は、二月中はパリで連泊するという前提で、格安ツアーで使われるようなホテルかユースホステル、パリ滞在中の行動範囲は未定、というような感じでした。

卒業旅行(自分はまだ確実に卒業できると言えるわけではないけれども)として、お互いを懐かしむいい機会でもあるし、普段はなかなか話す機会のない話をすることでお互いをよりよく知る機会としても貴重だったかも知れず、残念なことではありました。ただ、初めから少し気になっていたのは、卒業旅行の目的地としてヨーロッパ(先進国)を選ぶという感覚への違和感と、旅の趣旨への疑問、でした。このレンタカーの件に象徴されるように、感覚の違いを抱えたまま旅行しても、極端な話、旅先で喧嘩して終わりかねません。行くと言っておきながら取りやめたことで、迷惑をかけたと思っていますが、どうか勘弁。

ちなみに、旅の趣旨という点に関して考えていたのは、こんな感じのことです。旅行の醍醐味の一つは、現地の人、旅先で出会った人とのコミュニケーション。それを重視すれば、基本的には面白い旅になるだろう。でも、あまり内向きなグループ、自分達だけで盛り上がっているのを楽しいと思うようなグループでは、あまりできないことです。コミュニケーションとは違った要素で旅行の醍醐味だと思えるものとしては、探検的要素もあります。よい景色を楽しむ、というのも含めていいのですが、それに限らず、どんどん突き進んでいくことで、新しい発見に出会えるものだと思います。

次は、いつ誰とどんな趣旨で旅ができるでしょうか。

2009-02-10

歴史批判型選考

これは、選考試験のやり方についての思い付き・・・もとい、提案です。普遍的に妥当するものであればよいと思いますが、とりあえず念頭に置いているのは、ゼミの選抜や日本のALSAでの企画参加者選考です。

まず、この提案の根底にある問題意識は、(特に活動の実質面で)歴史がなかなか継承・活用されていない、もっと継承・活用されるべきなのではないか、ということです。ちなみに、実質面という言葉は、ここでは、活動の本質(≒たとえ時代が変わっても変えるべきでないもの)により近いもの、という程度のつもりで使っています。形式面と対になるもののつもりではありましたが、実質面とは対照的によく継承・活用されている、というような形式面の具体例は思い浮かびませんでした。

さて、提案の中身に移ります。歴史批判型選考とは、活動の実質面について、前代(以前)への批判的な評価に基づいて今後の取り組み方を考える、という要素を(大きく)取り入れることです。具体的には、例えばゼミで言えば、過去のゼミ論文にを材料にして、論文の進化すべき方向性を検討する、というのがあり得るでしょう。ALSAの、例えばAF(リンク先のHistoryの部分では2004年以前もAAFとされているけれども、当時はまだALSAという団体は設立されていなかった筈だから、おかしい)で言えば、前回又はそれ以前のAF報告書(IBによるもの、又は日本代表団によるもの)を材料にして、AF全体又はAFへの日本の関与の仕方について検討する、ということがあり得ると思います。

では、このような選考試験のやり方には、選考試験そのものとしてはどのような意義・価値があるでしょうか。問題意識として触れた点は、(選考試験の)受験者という立場の人の力を借りずとも、自分達のみでできる(べき)ことであり、副次的な効果と言えます。また、企業による新卒採用では、選考はジャッジする場であるとともに魅力的な学生を惹きつける場でもあるなどと言われます。しかし、選考試験は、説明会などと比較すれば、自ずといくら選考試験においてそれは受験者の意欲工場が選考試験の本質的目的とは言えないことがわかります。やはり、ゼミALSAでやるとしたら、その選考試験に必要な本質的要素は、ジャッジの要素であると言ってよいでしょう。

では、歴史批判型選考という形式では、何が審査できやすく、何が審査できにくいでしょうか。最も重要だと思うのは、所謂論理的思考能力を実戦に応用する能力(意欲)ではないかと思います。日本のALSAゼミの中では、ディベートによって論理的思考能力を鍛えるとか、グループディスカッションなどで論理的思考能力を審査するという議論を聞いた気がしますが、そういう風に言われる論理的思考能力は、結局実戦で発揮されて初めて意味のあるものでしょう。勿論、選考の段階ではそのような能力の素質さえあればよく、必ずしも実戦に応用できる能力は必要ない、選考後に教育すればよい、という考え方もできます。しかし、それが現実的であるかどうか。自分は懐疑的です。また、論理的思考能力は(ある程度)普遍的であり、選考でそこまで実戦性を重視しなくとも、実戦に通用する論理的思考能力を審査できる、という考え方もあるでしょう。この考え方については、何とも言えません。ただ、他の副次的効果についてはともかく、実戦的な論理的思考能力を審査するという点について言えば、論理的思考能力の普遍性が論証できないのならば、より実戦的な選考を行った方が、より確実であると言えるのではないでしょうか。

歴史批判型選考により審査できる能力としては、次に、権威に挑戦する勇気が挙げられます。この点については、必ずしもゼミ生・ALSA会員の現状の水準で満足できないとは言えませんが、必要とされる能力(資質)であることは確かなのではないかと思います。それは、組織論としても、組織を活性化・成長させていくために必要だと思いますし、そもそも学術活動というのは、権威というものから自由でなければならないのではないかなぁ、と思います。

これに類似するものとして、批判的議論を円滑に進めるコミュニケーション能力も、歴史批判型選考によって審査できるでしょう。これが重要なのは、仮に相手を批判する意思・覚悟があったとしても、伝え方次第では、議論・感情をこじらせてしまうことがありがちだからです。ディベートや身近でない議題・架空の議題についてのディスカッションでも批判をする場を作ることはできますが、批判する側・批判される側の思い入れの度合いが違うのではないでしょうか。やはり自らがやってきたことを批判されるというのはプライドを傷つけられたりすることもあるでしょう。だからこそ、同じ内容を伝えるにしても、より高度な表現力・配慮が求められるのです。実際の議論の際に必要とされるコミュニケーション能力とは、このような能力ではないでしょうか。

最後に、歴史批判型選考を検討する上で避けて通れない特徴、活動目的・趣旨の理解度を必要とする、という側面があります。言うまでもなく、ゼミであったりその企画であったり、これから参加しようとしている(つまり通常は未だ参加していない)ものへの理解なくしては、批判的な議論などできるわけがないからです。尤も、活動の実質面について議論するというのは、あくまで歴史批判型選考の理念・趣旨であるに過ぎず、受験者を完全に拘束できるものではありません。つまり、実際には、より普遍的・形式的な議論がなされる可能性もあるでしょう。その場合は、論理的思考能力などについてはその議論の中身に基づいて評価できると思いますが、この活動目的・趣旨の理解度に関しては、無評価とすべきでしょう。逆に、活動目的・趣旨の理解度をよりよく理解していればいるほど、より内容の濃く水準の高い批判ができるでしょう。ただ、活動目的・趣旨の理解度を選考で審査すること自体、賛否両論のあり得ることだと思います。実際、自分自身も、就職活動の選考の場面で、その企業の事業・活動についての理解を深追いされるのは嫌でした。そのような知識は、審査されるべき能力とは違うものに思えたし、相手に媚を売っているように思えたからです。ゼミALSAに即して考えてみても、そのような理解は、選考を通過してから得ればよいもの、という考え方もあるでしょう。しかし、今となっては、より根本的なもの、時代が変わっても堅持すべきもの、つまり活動の趣旨や目的、原則などは、選考段階から持っているべきものなのではないか、と思います。なぜなら、参加が決まってからイメージと違った!ということになっては、変えることはできず、その感覚の違いは、本人のモチベーションの低下か組織としての根本を揺るがすことにつながりかねないからです。ただ、その理解を得るための努力は、選考の評価にできる限り影響を及ぼさないようにした方がよいでしょう。そのような努力は、組織に対する敬意・誠意として肯定的に評価することもできますが、たまたま関係者が知り合いにいた、などの偶然の要因も作用するため、より重視すべき能力の審査が相対的に疎かになる可能性があるからです。例えば面接という形式ならば、面接の前に再度最終説明会のような場を設けたり、議論の材料はその選考が始まるまで提示しない、というようにすればよいのではないかなぁと思います。

2009-02-08

CMに行くのか

3月13日・14日に、CMがあります。正式名称をそのまま略せばNCMになるけども、まぁそれと対比されるであろうICM(但しこのInternationalという語は二国間以上という意味でも使えるので、全加盟国(NC)が招集されるという性質を表すためには、必ずしも相応しくないような気がするけども、とりあえずELSAではこの語が使われています)・LCMALSAには存在しないので、この場は、呼び慣らわしているCMという語で代用することにしましょう。

さてこのCM、内部的には会員には原則参加義務があるなどと言われることもあります。自分などは、会員としての権利を主張しようとしている以上、義務についても実行しなければおかしい、という考えもあるでしょう。一般論としても、CMにより多くの会員が参加することには、組織としての一体感の醸成や民主主義の実践といった重要な意義があると考えています。

しかし一方で、参加を躊躇する理由もあります。沈黙は同意を示すという言葉(ディベートの原則の一つでもあります)は、基本的には正しいと思うので、そうであるなら、参加する以上は、同意しない点についてはすべて反論すべきということになります。しかし、同意しない点が多過ぎることが予想される場合は、どうでしょうか。恐らくCM運営者が許容する以上の発言時間を求めることになるし、それは他の参加者の発言機会を奪うことにもつながるでしょう。自分がCMに参加するとしたら、まさにそのような事態が予想されるのです。

自分では、そのような同意しない点の多くは、表面的・形式的に同意できないに過ぎないのではないかと予想しています。つまり、ちゃんと議論すれば同意できたり、単に形式的な誤りを指摘するに過ぎないことが多いような気がする、ということです。では、表面的・形式的だから、指摘しなくてよいか。そうすると、それはその表現・形式に同意した、ということを意味してしまうはずなのです。

そもそも、表面的・形式的に誤りの(多く)あるものを出すのは、読者に対して、失礼であるかも知れません。一見誤りであるように見えて、でも本当は誤りではなく何らかの意図でそうしている場合も、それならそれで説明があるべきで、読者に与えた違和感を解消させないのは、それも失礼に当たるような気がします。そのような、表面的・形式的に違和感のある点が多く見つかるだろうというのは完全に自分の感覚的な予想に過ぎませんが、逆に言えば、その予想を覆す根拠となるものも殆どない(あったとしても明確には提供されていない)ということでもあります。仮にすべての違和感を感じる点について指摘・議論する時間が与えられたとしても、充実感の大きな議論にはなりにくいので、感情論としてはやはり、行きたくない、ということになってしまいます。

場合によっては、同意しない点が多過ぎるとしたら、その人の会員としての適性に問題がある、と考えることもできるでしょう。任意の団体である以上、ある一定の認識を共有できる人間が集まっているのが前提であり、そのように認識を共有できない人は会員として相応しくない、という考え方です。この考え方は、時に有形、時に無形でALSAにも存在しているように感じますし、この考え方自体が全く間違っていると言うできないでしょう。

ただ、ここでいう認識は、組織の本質に関わる重要な事柄のみであるべきで、表面的・形式的な点での意見は含めるべきでないと思っています。でも、ある表現・形式に対して違和感を感じるかどうか、あるいはさらに根本的に、表面的・形式的に読者に違和感を与えることを失礼と考えるかどうか。この辺りの認識に大きな隔たりがあるのだとしたら、それはもう、会員としての適性に影響してくるほどの、問題なのかも知れません。

2009-02-06

「ともだちのあなただから」

TULIPのアルバムTULIP SINGLES 24 1972-1984で知った、ともだちのあなただからという曲。

ふとウェブ検索をしてみて、行き着いたのが、「とっても暗い歌・財津和夫作詞<ともだちのあなただから>研究(ちょ~蛇足)」。歌詞の理解の仕方が腑に落ちて、この曲が好きになりました。

しかし、その後疑問だったのが、この声は何?ということ。ヴォーカルは財津和夫ということになってますが、どうもそうは聞こえません。そこで、またまたウェブ検索をしてみました。その結果、わかったこと。MELODYというアルバムの解説によると、この声は、財津和夫さんのファルセットだそうです。裏声のようなものということですね。そういうことだったんですね。なるほど。