これは、選考試験のやり方についての思い付き・・・もとい、提案です。普遍的に妥当するものであればよいと思いますが、とりあえず念頭に置いているのは、ゼミの選抜や日本のALSAでの企画参加者選考です。
まず、この提案
の根底にある問題意識は、(特に活動の実質面で)歴史がなかなか継承・活用されていない、もっと継承・活用されるべきなのではないか、ということです。ちなみに、実質面
という言葉は、ここでは、活動の本質(≒たとえ時代が変わっても変えるべきでないもの)により近いもの、という程度のつもりで使っています。形式面と対になるもののつもりではありましたが、実質面
とは対照的によく継承・活用
されている、というような形式面
の具体例は思い浮かびませんでした。
さて、提案
の中身に移ります。歴史批判型選考
とは、活動の実質面について、前代(以前)への批判的な評価に基づいて今後の取り組み方を考える、という要素を(大きく)取り入れることです。具体的には、例えばゼミで言えば、過去のゼミ論文にを材料にして、論文の進化すべき方向性を検討する、というのがあり得るでしょう。ALSAの、例えばAF(リンク先のHistoryの部分では2004年以前もAAF
とされているけれども、当時はまだALSAという団体は設立されていなかった筈だから、おかしい)で言えば、前回又はそれ以前のAF報告書(IBによるもの、又は日本代表団によるもの)を材料にして、AF全体又はAFへの日本の関与の仕方について検討する、ということがあり得ると思います。
では、このような選考試験のやり方には、選考試験そのものとしてはどのような意義・価値があるでしょうか。問題意識
として触れた点は、(選考試験の)受験者という立場の人の力を借りずとも、自分達のみでできる(べき)ことであり、副次的な効果と言えます。また、企業による新卒採用では、選考はジャッジする場であるとともに魅力的な学生を惹きつける場でもあるなどと言われます。しかし、選考試験は、説明会などと比較すれば、自ずといくら選考試験においてそれは受験者の意欲工場が選考試験の本質的目的とは言えないことがわかります。やはり、ゼミやALSAでやるとしたら、その選考試験に必要な本質的要素は、ジャッジ
の要素であると言ってよいでしょう。
では、歴史批判型選考という形式では、何が審査できやすく、何が審査できにくいでしょうか。最も重要だと思うのは、所謂論理的思考能力を実戦に応用する能力(意欲)ではないかと思います。日本のALSAやゼミの中では、ディベートによって論理的思考能力を鍛えるとか、グループディスカッションなどで論理的思考能力を審査するという議論を聞いた気がしますが、そういう風に言われる論理的思考能力
は、結局実戦で発揮されて初めて意味のあるものでしょう。勿論、選考の段階ではそのような能力の素質さえあればよく、必ずしも実戦に応用できる能力は必要ない、選考後に教育すればよい、という考え方もできます。しかし、それが現実的であるかどうか。自分は懐疑的です。また、論理的思考能力は(ある程度)普遍的であり、選考でそこまで実戦性を重視しなくとも、実戦に通用する論理的思考能力を審査できる、という考え方もあるでしょう。この考え方については、何とも言えません。ただ、他の副次的効果についてはともかく、実戦的な論理的思考能力を審査するという点について言えば、論理的思考能力の普遍性が論証できないのならば、より実戦的な選考を行った方が、より確実であると言えるのではないでしょうか。
歴史批判型選考により審査できる能力としては、次に、権威に挑戦する勇気が挙げられます。この点については、必ずしもゼミ生・ALSA会員の現状の水準で満足できないとは言えませんが、必要とされる能力(資質)であることは確かなのではないかと思います。それは、組織論としても、組織を活性化・成長させていくために必要だと思いますし、そもそも学術活動というのは、権威というものから自由でなければならないのではないかなぁ、と思います。
これに類似するものとして、批判的議論を円滑に進めるコミュニケーション能力も、歴史批判型選考によって審査できるでしょう。これが重要なのは、仮に相手を批判する意思・覚悟があったとしても、伝え方次第では、議論・感情をこじらせてしまうことがありがちだからです。ディベートや身近でない議題・架空の議題についてのディスカッションでも批判をする場を作ることはできますが、批判する側・批判される側の思い入れの度合いが違うのではないでしょうか。やはり自らがやってきたことを批判されるというのはプライドを傷つけられたりすることもあるでしょう。だからこそ、同じ内容を伝えるにしても、より高度な表現力・配慮が求められるのです。実際の議論の際に必要とされるコミュニケーション能力とは、このような能力ではないでしょうか。
最後に、歴史批判型選考を検討する上で避けて通れない特徴、活動目的・趣旨の理解度を必要とする、という側面があります。言うまでもなく、ゼミであったりその企画であったり、これから参加しようとしている(つまり通常は未だ参加していない)ものへの理解なくしては、批判的な議論などできるわけがないからです。尤も、活動の実質面について
議論するというのは、あくまで歴史批判型選考の理念・趣旨であるに過ぎず、受験者を完全に拘束できるものではありません。つまり、実際には、より普遍的・形式的な議論がなされる可能性もあるでしょう。その場合は、論理的思考能力などについてはその議論の中身に基づいて評価できると思いますが、この活動目的・趣旨の理解度に関しては、無評価とすべきでしょう。逆に、活動目的・趣旨の理解度をよりよく理解していればいるほど、より内容の濃く水準の高い批判ができるでしょう。ただ、活動目的・趣旨の理解度を選考で審査すること自体、賛否両論のあり得ることだと思います。実際、自分自身も、就職活動の選考の場面で、その企業の事業・活動についての理解を深追いされるのは嫌でした。そのような知識は、審査されるべき能力とは違うものに思えたし、相手に媚を売っているように思えたからです。ゼミやALSAに即して考えてみても、そのような理解は、選考を通過してから得ればよいもの、という考え方もあるでしょう。しかし、今となっては、より根本的なもの、時代が変わっても堅持すべきもの、つまり活動の趣旨や目的、原則などは、選考段階から持っているべきものなのではないか、と思います。なぜなら、参加が決まってからイメージと違った!ということになっては、変えることはできず、その感覚の違いは、本人のモチベーションの低下か組織としての根本を揺るがすことにつながりかねないからです。ただ、その理解を得るための努力は、選考の評価にできる限り影響を及ぼさないようにした方がよいでしょう。そのような努力は、組織に対する敬意・誠意として肯定的に評価することもできますが、たまたま関係者が知り合いにいた、などの偶然の要因も作用するため、より重視すべき能力の審査が相対的に疎かになる可能性があるからです。例えば面接という形式ならば、面接の前に再度最終説明会のような場を設けたり、議論の材料はその選考が始まるまで提示しない、というようにすればよいのではないかなぁと思います。