3月13日・14日に、CMがあります。正式名称をそのまま略せばNCMになるけども、まぁそれと対比されるであろうICM(但しこのInternationalという語は二国間以上という意味でも使えるので、全加盟国(NC)が招集されるという性質を表すためには、必ずしも相応しくないような気がするけども、とりあえずELSAではこの語が使われています)・LCMがALSAには存在しないので、この場は、呼び慣らわしているCMという語で代用することにしましょう。
さてこのCM、内部的には会員には原則参加義務がある
などと言われることもあります。自分などは、会員としての権利を主張しようとしている以上、義務についても実行しなければおかしい、という考えもあるでしょう。一般論としても、CMにより多くの会員が参加することには、組織としての一体感の醸成や民主主義の実践といった重要な意義があると考えています。
しかし一方で、参加を躊躇する理由もあります。沈黙は同意を示すという言葉(ディベートの原則の一つでもあります)は、基本的には正しいと思うので、そうであるなら、参加する以上は、同意しない点についてはすべて反論すべきということになります。しかし、同意しない点
が多過ぎることが予想される場合は、どうでしょうか。恐らくCM運営者が許容する以上の発言時間を求めることになるし、それは他の参加者の発言機会を奪うことにもつながるでしょう。自分がCMに参加するとしたら、まさにそのような事態が予想されるのです。
自分では、そのような同意しない点
の多くは、表面的・形式的に同意できないに過ぎないのではないかと予想しています。つまり、ちゃんと議論すれば同意できたり、単に形式的な誤りを指摘するに過ぎないことが多いような気がする、ということです。では、表面的・形式的だから、指摘しなくてよいか。そうすると、それはその表現・形式に同意した、ということを意味してしまうはずなのです。
そもそも、表面的・形式的に誤りの(多く)あるものを出すのは、読者に対して、失礼であるかも知れません。一見誤りであるように見えて、でも本当は誤りではなく何らかの意図でそうしている場合も、それならそれで説明があるべきで、読者に与えた違和感を解消させないのは、それも失礼に当たるような気がします。そのような、表面的・形式的に違和感のある点が多く見つかるだろうというのは完全に自分の感覚的な予想に過ぎませんが、逆に言えば、その予想を覆す根拠となるものも殆どない(あったとしても明確には提供されていない)ということでもあります。仮にすべての違和感を感じる点について指摘・議論する時間が与えられたとしても、充実感の大きな議論にはなりにくいので、感情論としてはやはり、行きたくない、ということになってしまいます。
場合によっては、同意しない点が多過ぎるとしたら、その人の会員としての適性に問題がある、と考えることもできるでしょう。任意の団体である以上、ある一定の認識を共有できる人間が集まっているのが前提であり、そのように認識を共有できない人は会員として相応しくない、という考え方です。この考え方は、時に有形、時に無形でALSAにも存在しているように感じますし、この考え方自体が全く間違っていると言うできないでしょう。
ただ、ここでいう認識
は、組織の本質に関わる重要な事柄のみであるべきで、表面的・形式的な点での意見は含めるべきでないと思っています。でも、ある表現・形式に対して違和感を感じるかどうか、あるいはさらに根本的に、表面的・形式的に読者に違和感を与えることを失礼と考えるかどうか。この辺りの認識に大きな隔たりがあるのだとしたら、それはもう、会員としての適性に影響してくるほどの、問題なのかも知れません。
0 件のコメント:
コメントを投稿