2009-02-26

「愛」とは何か

ありがたいことに、このブログの記事コメントをいただきました。そのコメントの中のご質問が、ちょっとその記事の本論から外れて、しかし重要な話題だと思うので、新たに記事を作成してみました。

とは何か。普遍的な意味でとは何かを考えるには、ぼくは不勉強すぎるので、ここでは、自分にとって愛とは何かを考えてみたいと思います。しかも、という言葉・概念はあまり普段の自分の生活に縁のないものなので、自分が意識的・無意識的に信条にしているものの中から、自分にとってのの手がかりを探してみたいと思います。

まず、自分が大事に考えている行動原則は、自分のために生きるということです。それについても説明しようとすると、また長くなりそうなので、ここでは措いておきます。ただ、このことは、自分の行動原則であるとともに、人間の本質なのではないかと自分は考えています。いずれにせよ、大事なのは、そのような行動原則がありながら、一見それに反する行動を取ることがある、ということです。

類型としては、一つ、戦略的な行動が挙げられると思います。一見自分のためにならないようでも、結果的に自分のためになると(意識的・無意識的に)思ってやっている、ということです。情けは人のためならず、ということですね。

一見自分のために生きるという行動原則に反する類型は、まだあるような気がします。一つには、主にモノに向かうもの。そんなことをやっても何の得にもならないのに、なぜそんなことをするのか、と傍から見れば首を傾げたくなるようなことは、自分に限らず、誰にでもあることなのではないでしょうか。少なくとも自分に関しては、そのような場合は、だいたい自己認識やアイデンティティと関係のある場合が多いような気がします。自分に利益があるかどうかはともかく、それをやるのが自分であり、そうでなければ自分でなくなってしまう、ということです。極端に言えば。でも、それも、アイデンティティの保持という精神的利益がある、と言えるような気もしますけどね。

アイデンティティの保持と対照的に、主にヒトに向かうものも、あるでしょう。結論から言いますと、自分にとってのに一番近いのは、これなのではないかと思います。そんなことをやっても何の得にもならないのに、なぜその人にそんなことをするのか。礼儀や敬意に関する事柄を除くと、アイデンティティの観点から説明できることは多くないように思います。では、なぜそんなことが起こり得るのか。共感が原因である、と考えてみては、どうでしょう。例えば嬉しいという感情。その人が嬉しいということが理解できるということではないのです。その人が嬉しい(と思っていると自分が認識する)ことが即ち自分が嬉しいことなのです。

・・・。

あぁ、よくわからない。ここに書いたことは、実際の自分には、殆ど一致してないかも知れません。その場合は、遠慮なく言って下さい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

にとらさん、こんにちは。
まりもです。
「愛とは何か?」という一見抽象的な問題に対し、丁寧に返答していただきありがとうございます。
自分は、自分の事がよく分からなくなります。自分がどうしたいのか、その部分が自力で考えられなくなるのです。その時、私は自己の存在を恨むのです。
時々この様な言動に至ります。昨年の4月以来、私はこの言動に悩んでいます。

昨年10月より、新しい環境になり、あまりこの様な仕草は、目立たなくなってきておりましたが、昨日から再燃し、自分の気持ちの整理が出来ずに悩んでいます。

近くに投げるものも、自分を打ち付けるものも限られているので、ストレスばかりが溜まります。
一緒に住んでいる友人にもその危害は及びつつあります。

愛・・・

私にはまだ無理なのかも知れません。

にとら さんのコメント...

自分がどうしたいのか。確かにそれを自分自身で正確に理解することは、容易いことではないのかもしれません。

自分自身を振り返ってみましょうか。自分の行動について複数の選択肢があって、自分としては特にどの選択肢を取りたいという意思がない場合、自分はどうしているだろうか。恐らく、自分が信頼する人の意思に従ったり、より資源消費の少ない選択肢を選んでいるのではないかと思います。

ただでさえ周りの人の言う事を聞かないと言われがちだから、少なくとも自分の意思と矛盾しない限りでは周囲の意見を聞きたいです。資源というのは、時間であったり金銭であったり体力であったりしますが、場合によっては(自分の考える)環境負荷であることもあります。

いずれにせよ、選択に迷った時に、そうやって他の基準に逃げているから、自分は本当は何を善いと感じるのか、突き詰められていないのかもしれません。まぁ、でも、そんな人生もそれはそれでいいのではないかと・・・。どう思いますか。