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2012-04-30

サイエンス・コミュニケーション

最近、

科学技術コミュニケーション活動の推進ということで、政府主導で、科学技術に関する一般の理解を深めようとする取り組みがなされている。これは、大変結構なことで、科学技術に関する知識を適切に捉え、柔軟に活用できるよう、国民の科学技術リテラシーの向上を図ることは、重要である。

第4期科学技術基本計画の中では、具体的な推進方策として、以下のようなものが挙げられている。

  • 科学技術の現状、可能性とその条件、潜在的リスクとコスト等について、正確な情報を迅速かつ十分に、国民に提供していくよう努める。
  • 国民との間で、こうした問題に関する多層的かつ双方向のリスクコミュニケーション活動を促進する。
  • 地域と共同した科学技術関連のイベントの開催、科学技術週間を活用した研究施設の一般公開、サイエンスカフェの実施等を通じて、双方向での対話や意見交換の活動を積極的に展開する。
  • 各地域の博物館や科学館における実験教室や体験活動等の取組を支援する。
  • 科学技術に関わる様々な活動を行う団体等を支援する。
  • 大学や公的研究機関における科学技術コミュニケーション活動に係る組織的な取組を支援する。
  • 一定額以上の国の研究資金を得た研究者に対し、研究活動の内容や成果について国民との対話を行う活動を積極的に行うよう求める。
  • 大学及び公的研究機関が、(中略)個々の活動によって培われたノウハウを蓄積するとともに、これらの活動を担う専門人材の養成と確保を進めることを期待する。
  • 研究者の科学技術コミュニケーション活動参加を促進するとともに、その実績を業績評価に反映していくことを期待する。
  • 学協会が、研究者による研究成果の発表や評価、研究者間あるいは国内外の関係団体との連携の(中略)機能を強化するとともに、その知見や成果を広く社会に普及していくことを期待する。
  • 研究者コミュニティーの多様な意見を集約する機能を持つ組織が、社会と研究者との橋渡しや、情報発信等において積極的な役割を果たすことを期待する。

では、

このような推進方策を実施すれば、本当に、今までよりも国民の科学技術リテラシーの向上を図ることができるのだろうか。

例えば、専門性が高いが、直接個人顧客の物質的利益につながるような活動をしない、という意味で、スポーツや芸術の分野では、状況はどうだろうか。科学技術におけるノーベル賞のように(?)、広く知られた競技会や表彰があり、プレーヤーの評価においては、そのような競技会における成績が、最も大きな比重を占めている。しかし一方で、順位付けだけでは測れない価値というものがあり、そのようなものは主に、専門家の解説を通じて、素人にも伝達される。例えば、パスセンスは巣晴らしい、グラブ捌きが一流、歌唱力が抜群、など。特にスポーツでは、素人目に見ると簡単になされていることでも、実際には難しい、ということもある。

このような、専門家による解説を通じて、より多くの素人が、わかった気になる。これこそすなわち、裾野が広がる、言い換えれば、一般のリテラシが向上している、ということなのではないだろうか。これは、スポーツに関しては、実際に行われていることである。科学技術においても、行われるようになる、もしくは今よりももっと行われるようになることが、国民の科学技術リテラシーの向上のために、重要なのかも知れない。

では、

スポーツで行われているような、専門家による、専門家についての解説を、科学技術についてもより広く行われるようにするには、何が必要か。一つの観点として、その役割を担う専門家とはどのような人々か、ということを考えてみたい。

スポーツにおいては、はじめから解説者としてのキャリアを歩む人もいるだろうが、専門家(プレーヤー)としての活動を終えてから、解説者として本格的な活動を始めることも多いように思われる。むしろ、狭義の専門家(プレーヤー)として活動できるのは限られた期間であり、その期間が過ぎた後のキャリアの一つとして期待され、また実際にニーズとマッチしたからこそ、解説者というある種の職業が実現しているのだろう。特に、元専門家である解説者の中でも、評価の高い人は、単に専門家時代の知識・経験のみに拠るのではなく、専門家(プレーヤー)としてのキャリアを終えた後に、より広い視点で関連する情報を収集・分析しているのではないだろうか。無論一方で、例えばサッカーワールドカップやオリンピックなどの特別な大会など、現役の専門家が、専門的技術を一般向けに解説する役割を果たすこともある。

スポーツにおける解説者の役割と同様な役割を、科学技術分野では、どのような人が、果たしているのか、果たしていないのか、それとも、そもそもそのような概念で語るべきではないのか。福岡伸一さんや、茂木健一郎さんなんかは、科学技術の解説者としての役割を、(部分的に?)果たしているように見える。もっと、そのような解説者が活躍できる場を広げ、科学技術の解説者という役割が市民権を得るようにし、そして(良い意味で)評価していく、ということが、重要なんじゃないだろうか。ひょっとして。

2012-04-29

「自主性」のすすめ

何のために生きているのか。それがわからなくなってどうしようもなくなった時、自主性自主的にという言葉が、解決の糸口になるかもしれない。

自主的とは

辞書によると、他からの指図や干渉によらずに、なすべきことを自分の意思に基づいて行うさま。このなかで、注目したいのは、なすべきことという部分と、自分の意思に基づいてという部分です。

まず、第一の仮説。何をなすべきか、という問いに対する答え、そしてその優先順位や可否の判断の結論は、複数あることが多いのではないだろうか。例えば、当人の立場から考えるのか、周囲の立場から見るか、またどのような考え方に立つか。なすべきこととは何か、という問題から生まれてくる葛藤もあるでしょう。

もう一つの、自分の意思に基づいてという点も、当たり前のようで、なかなか難しい。極論をすれば、自律神経系に制御される行動以外はすべて、随意なのだから、自分の意思に基づいているんじゃないかとも言えます。

さて。

以上のようなことを踏まえると、自主的という言葉を、もう一歩踏み込んで定義できるんじゃないか、というのが、第二の仮説です。即ち、(○○に対して)自主的であるとは、周囲の(○○の)期待することを、特に、それに従わざるを得ない状況でも、あたかも自らの独立した意思によるかのように行動すること

例えば、自主練自主トレ。訓練の量としては必要と思われているものの、何らかの事情によって、強制したり制度化したりするのが難しい場合に使われたりしていないか。自主規制は、必要と思われる規制を、あくまで強制されているわけではない形で実施することなのでは。

では、自主的の何が善いか

一つには、周囲の期待に応えるわけだから、周囲との関係が円滑になる。さらに、自分の意思に基づいて行動していることを自覚することで、個々の行動に前向きに取り組めるようになり、責任感や行動の改善にもつながっていく。周囲から見て良い人に見える、という意味では、自主的であることは、重要なことであるように思えます。

一方で、もちろん、自主的に行動することには、難しい点もあります。まず、周囲が自らにどのようなことを期待しているか、理解しなければいけない。その上で、自分というものを、をある程度抑え、周囲の期待に合わせていかなければいけない。さらに、周囲から半ば強制されているように思われることでも、人のせいにするのではなく、あくまでも自分の意思で行うと考えるように、自らの心をコントロールできなければいけない。言うなれば、賢さ、冷静さ、そして強い心が必要なわけです。

何のために生きているのか

自主的である、ということには、ある程度の難しさがあるとは言え、何のために生きているのかという問いへの答えを探す上でも、有力な手がかりになるんじゃないか。そのように思うわけです。

まず、人は、強制的に、生まれる。そして、生き続けることを、(半ば)強制される。親戚関係も、自らは選べない。生まれる時期や場所にしても、然り。そんな中でも、あたかも自らの意思でそのような条件を選んだかのように考え、前向きに振る舞い、生きること。ある意味では、究極の自主性と言えるかも知れません。

2009-11-22

Jリーグの試合を見に行きませんか

Jリーグ第32節川崎が大分に敗れたことで、第33節鹿島・ガンバ大阪戦が、優勝を決める上で最も重要な試合となりました。

というわけで、この試合の券が残り少ないという噂もありますが、そんなことは気にせず、一緒に観戦に行ってやるぞ、という方を募集中です。観戦ツアーをやるとして、モデルプランは、こんな感じです。

催行人員2名まで

交通手段
自転車
往路
朝4時出発(練馬周辺基準、途中食事無しの場合)
14時頃到着
復路
16時頃出発
24時頃到着(練馬周辺基準、途中食事無しの場合)

催行人員3~5名

交通手段
レンタカー
往路
10時頃出発(練馬周辺基準)
14時頃到着
復路
16時頃出発、どこか寄り道
22時頃到着(練馬周辺基準)
追加出費
レンタカー代
燃料代
駐車場代

2009-09-05

自然科学研究機関の位置付け

徒然なるままに、自然科学研究機関の位置付けを考えてみています。社会科学・人文科学の分野にまで応用・連続できるのかどうかわからないので、とりあえず自然科学分野を念頭に置いて考えてみます。大雑把で抽象的なので何を言っているのかわからないと思われるのが普通かと思いますが、ご意見をいただければ幸いです。

両軸の定義・特徴

  1. 分野融合的⇔分野独立的

    前提として、研究者は、特に何もしなければ分野独立的に研究を行うものだと思います。それは、事務でもそうでしょう。企画系・広報系・経理系・庶務系・知財系等々、何もしなければ、それぞれの系列内で仕事がつながるのではないでしょうか。それに対して、積極的に働きかけを行うのが、分野融合的であるということです。

    但し、同じ分野融合的と言っても、戦略研究機関総合研究機関ではその性格が若干異なります。前者においては、分野融合として求められることの中身は、組織レベルで、関係する様々な分野の研究を含んでいることです。いや、様々な分野の研究を含んでいることが必要というよりは、下記のように政策目的ありきで組織が存在する以上、それに関係する分野が複数に亘るのが通常であり、その一部を排除すべきではない、という消極的なものです。その中身も、同一の組織内に各分野の研究が含まれれば、とりあえずよいと言えます。

    それに対し、総合研究機関に求められるのは、基本的に全研究分野を網羅することです。つまり、戦略研究機関に比べれば、積極的な分野融合と言えるでしょう。また、分野融合の具体的な内容も、ただ単に一つの組織内に複数の研究分野が存在していればよいというものではありません。組織レベルではなく、研究レベル、研究者レベルで交流をし、触発し合うことが求められます。

  2. 国策的⇔独立的

    この軸は、政府の政策との関係性を強く持つ必要があるかどうか、というのが違いです。関係性が強い場合は、政策によって予算等が上下するでしょうし、そうでなければ、その逆ということです。

    各機関に影響する政府の政策というのは、大きく分けて、二種類あるのではないかと思います。一つは、研究の目的に当たるもの、例えば環境問題の解決や健康長寿社会の実現などです。もう一つは、知的基盤の整備で、国内外で共有する研究基盤として整備される研究施設や、研究に必要な資源の整備等があるでしょう。

    この、国策的か否かの違いは、各機関の業績評価のために用いるべき指標の違いにも表れるものなのではないかと思います。国策的な機関であれば、その国策を遂行できているかどうかが、最優先の評価基準となるでしょう。一方、独立的な機関においては、純粋に科学的な価値を評価することが第一の指標となるべきものなのではないでしょうか。

なお、上記に述べたものを一つの原則として、注意すべき点はあると思いますが、それはまた追って考えます。

組織として

自分の仕事のことはひとまず置いておいて、自分が所属する組織について、考えてみます。やはり、幸か不幸か、大きな変革を求められている状況であるようだからです。

機会があって、自分の持つ疑問として上司に伝えたことが、一つあります。それは、今、自分が見る限りは国としての方向性と現場としての方向性の調整に終始している気がするが、この組織全体としての方向性を示せないものか、ということです。(この通り伝わっているかどうかは、ともかくとして、言わんとしたことは、です。)

確かに、今までになかった、組織内横断的な施策も新たに企画されておりますが、それも、あくまでも予算を獲得するための戦術としての位置付けか、国にとって重要である、という位置付けになっていると思います。自分が考えたいのは、そのような施策が、我々の組織の進むべき方向性の中でどのように位置付けられるのか、ということです。

それに対する応答としては、現在の独法という組織形態では、国としての方向性を実行するのが我々の組織の役割である、という点と、進むべき方向性と言っても、我々の意思で決めるのではなく、我々を取り巻く環境によって柔軟に変えていくものだ、というような点・・・だったと自分は理解しました。

前者については、確かに法律上そう位置付けられているのは間違いないし、建前としては間違っていないと思います。国に対する説明としては、そうなるんだろうと思います。しかし、国とは距離をおいた組織として百年近い歴史を持つ組織が、外部向けにはともかく、内部においても、そのような思考しかできないとしたら、それは悲しいことだと思います。そして何より、それがある(あるべき)という点が、自分がこの組織に入ろうと決断した重要な要素の一つでさえあるのですから。それに、そもそも、「法律」というのは、本質的には、大前提とすべきものではない、と思います。もちろん、日常業務は法律を頂点とする行政法の体系を大前提としなければなりませんが、組織のあり方そのものを考える際には、法律自体も批判的に検討していくことが一般論として必要ですし、時期としても今はそれができる可能性の高い時期になっているのではないかと思います。

後者については、独法に限らず、サークルでも、会社でも、一般論として言えることだと思います。ALSA内でも、同様な議論をどこかでしていたような気がします。現在のところは、自分の考え方は、変わりません。自分たちの組織を取り巻く環境の変化をシュミレーションし、どのような状況になったらどうするという対応策を考えておくことが大事ですが、その対応策の前提となる、組織としての核となる意思は、本質的には、周囲の環境に左右されるものではない、と思います。ALSAの場合は、その本質的な部分を、(明文としては)規約会則として自ら決めていたものが、今の我々の組織では、法律という形で外部的に与えられている、というのが、考えを整理しにくくしている要因の一つでもあるのでしょうか。

ちなみに、前者の議論をさらに進めると、ではその組織としての意思の中身としては、何が適切なのか、自分の考え方はどうなのか、ということになります。組織としての意思を持つというコンセンサスのない中でその中身について議論をするのは、議論を矮小化させているような気もしますが、そうだとしても、自分の具体的な案なしに質問ばかりぶつけるのは失礼なことなので、考えなければなりません。

一つの考え方として、現場の、研究者がより自由に研究でき、実力を発揮できる環境を整えることが組織としての意思だ、というような話も聞いたことがあるような気がします。自分(たち)の仕事の出来如何が人の生活を左右する、という責任を指摘されたことも、これと関係するのかも知れません。確かに、仕事上のミスが人に与える重大性は、十分に認識しなければなりません。しかし、ミスレベルの話ではなく、方向性の話をする際には、決して、今いる人たちのため、というのが最重要な方向性ではないことは、組織外部の人と話していて、気付かされました。しかし、そういう話をすると、中にいる人たちのためではなく国のために組織として方向性を定めるべき、という議論になりがちな気がしますが、そのどちらでもない、第三の道があるのではないか、というのが、ここで言わんとしていることです。

2009-05-22

予算

思い付きですが・・・、思い付いたことを書いてみます。思い付きですが。誰か、ディベートの論題にでも使ってくれないかな・・・。(どうでしょう、ALSAの皆さん・・・可能な範囲で協力は惜しみませんので。笑)

組織の設置目的上事業の成果が短期的には見えにくい公的機関の予算は、国の財政支出全体に対して一定比率を保つものとする。(その比率は中期計画の期間ごとに見直す。としてもよい。)

以下、補足です。

  • まず、メリットとして、予算獲得(維持)のために費やす経営資源を縮小し、本来の業務のために必要な任務に振り分けることができるのではないか、ということが挙げられる・・・ような気がします。
    • ただ、毎年の予算要求が業務改善のモチベーションになっていると考えるなら、それをなくしてしまうことは、業務改善の速度を落とすことになる。
      • しかし、実態としては、業務改善と予算要求はあまり関連付けられていないのではないか・・・と思います。(例えば、極端に言えば、業務効率化によって必要な経営資源が減少したとしても、その分予算額が減らされるのオチ・・・なような気もしなくはありません。)
  • 業務改善努力の監視・評価という意味では、予算要求の際の査定が多少はその役割を担っているかも知れませんが、それ以上に、評価そのものを行う取組があります。評価されること自体が業務に負担をかけていることを考えると、行政的に評価する仕組みが一本化されることは業務改善という意味でも望ましい・・・ような気もしなくはありません。
  • 予算要求作業がなくなることにより所管官庁との結び付きが弱まり、国策との整合性が取りにくくなる、ということであれば、上述の評価事業を、所管官庁が行うようにしてはどうでしょうか・・・と思います。
  • 国策として予算を付けて事業を執行させることができなくなる、ということであれば、そのような国策事業は別途使途に制限のある補助金として拠出するようにしてはいいのではないか・・・と思います。

何分思い付きなので、至らない点が多いとは思いますし、あまり業務内容を公開するわけにもいかないので、その点でもわかりにくいかも知れませんが、(特に)顔の見える皆様からご意見をいただけましたら、(自分の考えを深める上での)参考として、とてもありがたいです。メールでもコメントでも何でも構いませんので、もしありましたら、よろしくお願いします・・・。

2009-02-13

学術総合報告書

今回は、ALSAへの提案です。ALSAへの、とは言っても、実質的には日本のALSAへの提案です。全体では、ここで述べる問題意識が問題となる程度にまで活動水準が達していないと思うからです。

では、この提案の前提となる問題意識は、どんなものか。一つは、日本のALSAで行っている学術活動の全体像がなかなか見えにくい、ということです。ALSAを、学術活動を行う団体と位置づけるなら(但しこれ自体も必ずしも自明な命題ではありませんが)、ではどんな学術活動を行っているのか、という説明は必然的に必要になってくるでしょう。現状でも、こんな企画をやっている、という説明はできるでしょう。しかし、そこで実際にどのような学術的成果が上がっているのか、と考えると、現状では全くと言っていいほど整理されていないのではないかと思います。

もう一つの問題意識は、特に組織としての成長に関わることです。規模だけでなく、学術活動の内容としても成長をしたいと考えるのならば、過去の活動を評価・分析し、現状を認識しすることが第一歩なのではないかと思います。それを踏まえてこそ、一段と高い目標を設定でき、それを達成することで学術活動の質を向上できるのではないでしょうか。自分には、今までのALSAにはこの評価・改善の循環が見られなかったように思われるのです。

さて、以上のような問題意識に基づく提案学術総合報告書ですが、その内容の核心部分は、至って単純です。管轄内の学術活動をすべて網羅して、学術的議論の中身に特化した報告書を作る、ということです。例えばディスカッションであれば、出てきた意見・質問を、すべて記録しつつ、それぞれの意義を確認する、というようなことになるでしょう。ディベートであってもそれはほぼ同じで、両陣営の発言・質問を記録して整理することになると思います。ただ、ディベートの場合は(ディスカッションでも場合によってはそうかも知れませんが)、実際の発言・質問は準備してきたもののほんの一部、ということも多いでしょう。その点を鑑みると、将来的には、準備段階の過程も含めて記録・整理できるようになるとよいのかも知れません。これに加えるなら、その企画・活動の学術的目標とその達成度についても触れられるとよいかも知れません。

最後に、学術活動をすべて網羅と言いましたが、その具体的なイメージを挙げてみます。統括者も学術活動の枠組みは把握していると思いますが、実際の担当者が文責を担うのがふさわしいのではないかと思います。

  • LCレベルで編纂する場合
    1. 第_回AA
    2. 第_回CCP
      1. 第_回事前勉強会
      2. 本番
    3. 早稲田祭
      1. 第_回事前勉強会
      2. 本番
    4. _講演会
  • NCレベルで編纂する場合
    1. STfrom_
      1. 社会見学
      2. テーブル_
    2. 第_回AI
      1. テーブル_
    3. NCIB主催企画への派遣
      1. STin_
        1. 社会見学
        2. テーブル_
      2. AF
        1. 社会見学
        2. テーブル_
        3. ディベート・模擬裁判
      3. AC
        1. 社会見学
        2. テーブル_
        3. ディベート・模擬裁判

2009-02-10

歴史批判型選考

これは、選考試験のやり方についての思い付き・・・もとい、提案です。普遍的に妥当するものであればよいと思いますが、とりあえず念頭に置いているのは、ゼミの選抜や日本のALSAでの企画参加者選考です。

まず、この提案の根底にある問題意識は、(特に活動の実質面で)歴史がなかなか継承・活用されていない、もっと継承・活用されるべきなのではないか、ということです。ちなみに、実質面という言葉は、ここでは、活動の本質(≒たとえ時代が変わっても変えるべきでないもの)により近いもの、という程度のつもりで使っています。形式面と対になるもののつもりではありましたが、実質面とは対照的によく継承・活用されている、というような形式面の具体例は思い浮かびませんでした。

さて、提案の中身に移ります。歴史批判型選考とは、活動の実質面について、前代(以前)への批判的な評価に基づいて今後の取り組み方を考える、という要素を(大きく)取り入れることです。具体的には、例えばゼミで言えば、過去のゼミ論文にを材料にして、論文の進化すべき方向性を検討する、というのがあり得るでしょう。ALSAの、例えばAF(リンク先のHistoryの部分では2004年以前もAAFとされているけれども、当時はまだALSAという団体は設立されていなかった筈だから、おかしい)で言えば、前回又はそれ以前のAF報告書(IBによるもの、又は日本代表団によるもの)を材料にして、AF全体又はAFへの日本の関与の仕方について検討する、ということがあり得ると思います。

では、このような選考試験のやり方には、選考試験そのものとしてはどのような意義・価値があるでしょうか。問題意識として触れた点は、(選考試験の)受験者という立場の人の力を借りずとも、自分達のみでできる(べき)ことであり、副次的な効果と言えます。また、企業による新卒採用では、選考はジャッジする場であるとともに魅力的な学生を惹きつける場でもあるなどと言われます。しかし、選考試験は、説明会などと比較すれば、自ずといくら選考試験においてそれは受験者の意欲工場が選考試験の本質的目的とは言えないことがわかります。やはり、ゼミALSAでやるとしたら、その選考試験に必要な本質的要素は、ジャッジの要素であると言ってよいでしょう。

では、歴史批判型選考という形式では、何が審査できやすく、何が審査できにくいでしょうか。最も重要だと思うのは、所謂論理的思考能力を実戦に応用する能力(意欲)ではないかと思います。日本のALSAゼミの中では、ディベートによって論理的思考能力を鍛えるとか、グループディスカッションなどで論理的思考能力を審査するという議論を聞いた気がしますが、そういう風に言われる論理的思考能力は、結局実戦で発揮されて初めて意味のあるものでしょう。勿論、選考の段階ではそのような能力の素質さえあればよく、必ずしも実戦に応用できる能力は必要ない、選考後に教育すればよい、という考え方もできます。しかし、それが現実的であるかどうか。自分は懐疑的です。また、論理的思考能力は(ある程度)普遍的であり、選考でそこまで実戦性を重視しなくとも、実戦に通用する論理的思考能力を審査できる、という考え方もあるでしょう。この考え方については、何とも言えません。ただ、他の副次的効果についてはともかく、実戦的な論理的思考能力を審査するという点について言えば、論理的思考能力の普遍性が論証できないのならば、より実戦的な選考を行った方が、より確実であると言えるのではないでしょうか。

歴史批判型選考により審査できる能力としては、次に、権威に挑戦する勇気が挙げられます。この点については、必ずしもゼミ生・ALSA会員の現状の水準で満足できないとは言えませんが、必要とされる能力(資質)であることは確かなのではないかと思います。それは、組織論としても、組織を活性化・成長させていくために必要だと思いますし、そもそも学術活動というのは、権威というものから自由でなければならないのではないかなぁ、と思います。

これに類似するものとして、批判的議論を円滑に進めるコミュニケーション能力も、歴史批判型選考によって審査できるでしょう。これが重要なのは、仮に相手を批判する意思・覚悟があったとしても、伝え方次第では、議論・感情をこじらせてしまうことがありがちだからです。ディベートや身近でない議題・架空の議題についてのディスカッションでも批判をする場を作ることはできますが、批判する側・批判される側の思い入れの度合いが違うのではないでしょうか。やはり自らがやってきたことを批判されるというのはプライドを傷つけられたりすることもあるでしょう。だからこそ、同じ内容を伝えるにしても、より高度な表現力・配慮が求められるのです。実際の議論の際に必要とされるコミュニケーション能力とは、このような能力ではないでしょうか。

最後に、歴史批判型選考を検討する上で避けて通れない特徴、活動目的・趣旨の理解度を必要とする、という側面があります。言うまでもなく、ゼミであったりその企画であったり、これから参加しようとしている(つまり通常は未だ参加していない)ものへの理解なくしては、批判的な議論などできるわけがないからです。尤も、活動の実質面について議論するというのは、あくまで歴史批判型選考の理念・趣旨であるに過ぎず、受験者を完全に拘束できるものではありません。つまり、実際には、より普遍的・形式的な議論がなされる可能性もあるでしょう。その場合は、論理的思考能力などについてはその議論の中身に基づいて評価できると思いますが、この活動目的・趣旨の理解度に関しては、無評価とすべきでしょう。逆に、活動目的・趣旨の理解度をよりよく理解していればいるほど、より内容の濃く水準の高い批判ができるでしょう。ただ、活動目的・趣旨の理解度を選考で審査すること自体、賛否両論のあり得ることだと思います。実際、自分自身も、就職活動の選考の場面で、その企業の事業・活動についての理解を深追いされるのは嫌でした。そのような知識は、審査されるべき能力とは違うものに思えたし、相手に媚を売っているように思えたからです。ゼミALSAに即して考えてみても、そのような理解は、選考を通過してから得ればよいもの、という考え方もあるでしょう。しかし、今となっては、より根本的なもの、時代が変わっても堅持すべきもの、つまり活動の趣旨や目的、原則などは、選考段階から持っているべきものなのではないか、と思います。なぜなら、参加が決まってからイメージと違った!ということになっては、変えることはできず、その感覚の違いは、本人のモチベーションの低下か組織としての根本を揺るがすことにつながりかねないからです。ただ、その理解を得るための努力は、選考の評価にできる限り影響を及ぼさないようにした方がよいでしょう。そのような努力は、組織に対する敬意・誠意として肯定的に評価することもできますが、たまたま関係者が知り合いにいた、などの偶然の要因も作用するため、より重視すべき能力の審査が相対的に疎かになる可能性があるからです。例えば面接という形式ならば、面接の前に再度最終説明会のような場を設けたり、議論の材料はその選考が始まるまで提示しない、というようにすればよいのではないかなぁと思います。