2008-09-20

「内発的動機づけ」

内発的動機づけが人を変える

この記事の一頁目を読んで、違和感というか、反発というか、そんなものを感じた理由は、アメリカ式が良くて日本式が悪いというような考えを感じたからです。ただ、二頁目以降を冷静に読むと、必ずしもそうではなくて、むしろログインして二頁目以降を読ませるための挑発なのかなぁ、という気もしました。

ぼくにとって最も印象的だった部分は、二頁目の、このような言葉でした。

周囲の声や視線を気にして自分の将来を決める『外発的動機づけ』は、本人の意志がもろく、結果的に不幸になりかねない。(中略)自分から学びたいことややりたいことを見つけた『内発的動機づけ』は人生を一変させる。

まず、細かいことかも知れませんが、一変させるという中立的っぽい表現を使ってますが、読者が内発的動機づけをできていないという前提で、それができれば人生が(劇的に)良くなるというニュアンスで理解すべきですよね。それを前提に進めましょう。

ぼくは最近、自分の感覚に素直になることが重要だと思っていて、人にもそう言っていることが多いのですが、その考えが内発的動機づけのことなのかなぁ、それなら腑に落ちると思いました。これは余談ですが、CCDLで働かれていた方でぼくのことを素直だだと評価してくれた方がいまして、その意味があまりわかっていなかったのですが、こういうことだったのかなぁと最近思っています。

ぼくが自分の感覚に素直になることが重要だと思うようになった理由は、やはりALSAで人を見てきたことになります。どんな人が楽しそうか、どんな人が輝いているか、困難な時でも乗り越えられているのはどんな人か、そう思える人の共通項を考えていくと、自分の感覚に素直になることに行き着くような気がしています。

自分の感覚に素直になることで後悔しないようになる可能性が高まるとして、それを理屈として説明するなら、将来的に最も確からしいものは何か、に関係があるのだと思います。思うに、自分の感覚こそが、最も確からしいのではないでしょうか。だから、それをもとに判断すれば、後悔しにくい。ここで言う自分の感覚というのは、自分のアイデンティティであり、深層の信条であり、極端に言えば、それでなければ自分ではない、というようなものなのではないでしょうか。そこで、問題として残るのは、そのような変わりにくいと思える自分の感覚に辿り着けるかどうか、なのでしょう。

もう一つ、別な観点から、問題があります。果たして、皆がそのように自分の感覚に素直になって、本当に社会がうまく回るのか、ということです。確かに、自分の感覚に素直になり、内発的動機づけによって行動するようになれば、本人は幸せになるでしょう。しかし、それは他の人の幸せと両立するのか。穿った見方をするなら、ぼくは直感としてアメリカはかなり社会的矛盾を抱えていそうだと感じているのですが、多くの人が内発的動機づけによって行動した結果、なのかも知れません。

この記事の中では周囲の声や視線を気にしてというのが悲観的に捉えられていると思いますが、楽観的に考えれば、周囲のためを考えて自分の判断をしていると言えるかもしれません。それも外発的であるには変わりなく、その目的であった周囲が予想外の変わり方をしたら、本人は後悔することになりかねません。ただ、重要なのは、周囲のために自分の判断をすることは、内発的動機づけに基づいて自分の判断をするよりも周囲には良い影響を与えることができ、それを社会全体で実践してきたのが日本(だけとは言いませんが)だったのかも知れないと思います。

つまり、自分が後悔するリスクを、周囲が自分のことを思いやってくれることで軽減していた、ということです。逆に、皆が内発的動機づけに基づいて行動したら、自分が後悔しない代わりに、他人の行動が自分にとって不利益になる可能性が高まるのではないでしょうか。

こう考えると、サークル単位でも、大学単位でも、地域単位でも、国単位でも、自分が属する社会がどちらの方向を歩むべきかは、簡単には結論を出せません。つまり、この記事の言っていることが適切だと思うかどうかは、それが自分の最近の言動に近いように思えるにも関わらず、何とも言えません。ただ、自分が今まで各社会の中でどんな位置付けであったのかは、少しわかった気もします。

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