2008-07-07

譲れないもの

ST北海道の議論を、しています。一つの重要な論点は、企画の目標・趣旨の重点を、LC設立に置くか、国内他地域の法学生との交流に置くか、或いは両者を同等に重要なものと考えるか。

今日の会議で、一度は一番目の方向で認識を一致できたような気もしたけれども、最終的には現段階では二番目の方向で認識している人が多そうな状況でした。そして、自分が一番目の方向を明確に意識していて、かつそれは自分がST北海道に参加するならば絶対に譲れない点であるということも、今日の会議を通じて、わかってきました。

もし実質的に新LCを設立することを目指すなら、別にST北海道参加者で共通認識を取らずとも、自分がその目標のために働き、実現できれば良いのかも知れません。しかし、仮にそれが可能なことであったとしても、そうしたいとは思いません。国内の他地域に新LCを設立することが、自分にとって魅力的であるのと同じように、同じ企画に参加する仲間と目標を共有し、そのために一緒に全力を尽くすことが、自分にとって魅力的でありかつ重要であるから、なのでしょう。

言い様によっては、前者は実体的な問題であり目標、後者は手続的な問題であり目標かも知れません。そして、手続的な問題に固執するのは、形式的に過ぎると批判する人もいるでしょうし、自分自身がそう思うこともあります。確かに、最近自分が気付いた事として、何か企画を実現するためには、その企画の客観的な意義が重要であるのと同じかそれ以上に、それに携わる人がその企画にワクワク感を感じることが重要です。そして、形式的な問題・目標にワクワク感を感じるよりはより実体的な問題・目標にワクワク感を感じることの方が魅力的だし、自分自身もそうでありたいと思います。

ところが、客観的な価値としては、実体的に絶対的な善は存在しない(ことが多い)のではないか、とも考えられます。もしそうであるなら、実体的な問題・目標が善であることの根拠になり得るものは、そこに至る手続的な部分が善であるということしかない(ことが多い)、かも知れません。となると、手続的な問題にこだわることは、決して単に形式的なだけではなく、実体的な善を目指すために最善を尽くしている、と言うこともできます。

いずれにせよ、今自分がこだわろうとしていることは、LC設立という目標からすれば、手続的なことかも知れず、しかもその手続的なことにこだわるあまり、場合によってはその手続の先にある実体的な目標すら放棄することを視野に入れていることは、果たしてそれが良いことであるのかどうか、何とも言えません。ただ、二つ言えることは、このことは現在の自分の心境としては間違いのないことだということであり、そうやってこだわりたいこと、譲れないことのある自分は、幸せ者だということです。

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