2008-07-18

人はなぜ手品を見て楽しいのか

会食に行ってきました。参加者は七名でしたが、そのうち一人、手品を見せてくれる方がいました。食後、その人の手品にみんなで見入っていました。参加者のうちの別の一人をして今まで手品は嫌いだったけど好きになりましたと言わしめるほど、すごいものでした。

しかし、そこで思ったこと。手品の(手品を見る)楽しさがいまいちわからない。手品って、基本は相手を騙すことであり、あるいは自分の持っている知識・技術の存在を見せつけておきながら相手に教えないことなのではないかと考えてしまいました。

では一方で、自分が典型的に楽しい興味深いと感じ、感動するのは、どのような時か。たとえば、スポーツなどで、自分ではとてもできないような美技を見た時。一つ一つでは取るに足らないものでも、その組み合わせや発想の妙が一本取られた!と思える時。

このような種類の楽しさと比べるなら、手品の楽しさは、やはり異質なのではないでしょうか。手品は、美技として何度も見て楽しむものではなく、その場の錯覚として楽しむのが、基本でしょう。手品を支える技術やその背景にある発想に着目するのではなく、あくまで事実の流れとしての手品を楽しむのが基本でしょう。

では、そんな手品は、他のどんな種類の行為に似ているのか、と考えてみます。例えば、難しい数学の問題のようなもので、解けるということを示しておきながら、そのやり方を説明しないこと。なぜこのような手品を、人は好きになれるのでしょう。

2008-07-17

消費期限

朝、コッペパンを買いました。値上がりしていました。しかし、いろいろと作業をしていると、食べる機会を失ってしまい、結局一日持ち歩く羽目に。

しかし、今日は暑かった。これでは、さしものコッペパン君ももうだめになってしまっているのではないだろうか。賞味期限を確認してみよう。結果、消費期限は、明日18日になっていました。あと一日持つんだ…。そして、重要な情報が、もう一つ。

消費期限は(※)℃の保管温度での検査で十分安全を見込んだ期限となっております。

5月~10月…30℃
11月~4月…25℃

なんと、30℃で二日間持つんですね。コッペパン、おそろしや。

2008-07-15

「違和感」の重要性

今だからこそ、鍛えるべきは“ビジネス脳”より“ビジネス身体”

違和感の重要性は、自分も全くその通りだと思います。会社のみならずあらゆる組織で重要だろうと思います。今までそれほど自覚的だったわけではありませんが、印象的なことを言われたことがありました。

おれって理屈でものを考えるタイプかなー?

逆じゃないですか?いつもなんかおかしい。でもどこがおかしいんだろう?って考え込んでるイメージがあります。

目から鱗でした。確かに、言われてみれば、そうです。自分の感覚優先で、それに理屈を合わせようとしているんですね、自分は。

2008-07-13

リスク管理としてのCSRではなく

企業の社会的責任。これは、その責任を果たさない企業は現代の社会で生き残っていけない、という文脈で近時多く語られるようになってきていると思います。確かに、そうでしょう。実際、社会的責任を果たさない企業は社会的・経済的罰を受けるでしょう。また、環境・安全を軽視する企業への風当たりは年々強くなっています。

では、企業の経営者・従業員がこの社会的責任を果たそうとするなら、実際にはどのような目的を持って果たそうとするのでしょうか。ばれると、自分自身あるいは自分の企業に不利益が及ぶからでしょうか。現状では、この動機が強いのではないかと思います。しかし、これはいたちごっこなのではないでしょうか。ばれた場合の不利益が動機なら、仮にばれずに社会的責任を回避する方法が発見されたら、それを実行するでしょう。

では、そうならないためには、どう考えればよいのか。何かの目的のための社会的責任履行ではなく、社会的責任を履行すること自体を目的にする、あるいはそれ自体が良いことだと考えられればよいのではないでしょうか。しかし、善悪の価値観だけで多くの人の本音が動くものではないでしょう。最終的に人を動かすものの一つは、好き嫌いなのではないかと思います。自分の所属する企業が好きであるという感情を持ち、好きだからこそ良くなって欲しいと思えれば、自ら社会的責任を果たそうという動機になるのではないでしょうか。

2008-07-12

値切ってしまった

夜の二時前くらいに、よく行く店の一つに、食べに行きました。その前に、食事に行こうと電話したN君・K君、夜遅くにごめんなさい。某所で話したF君・O君、運が悪かった。Tさん、今度はよろしくお願いします。

餃子A定食を注文しました。来るのが結構のんびりでしたが、それはまぁいいとして(こっちはオナカすいてるんです!笑)、メニューを見たら590円のところ、伝票には649円と書いてあります。と思いながらも、食べます。餃子は、良い。ご飯は、おかわり自由はありがたいけれども、炊き加減としては、微妙。

さて、今回ここに来たのは、餃子とおかわり自由のご飯もさることながら、杏仁豆腐がおいしいから。でも、ない。ありませんか?今日は売れ切りです。え、売れ切りですか?何かないですか?無いです。・・・。

会計をするけれども、杏仁豆腐が無かったのは、どうにも収まらんなぁ…。しかも、649円って何だよ。今回出せるのは、500円までだ。というわけで、500円を手に、レジへ。これでお願いします。私は変えられません。そんなこと言わずに…。杏仁豆腐無かったでしょ?変えてほしければ、本社へ電話してください。じゃ、電話お願いします。いえ、あなたがしてください。そりゃ、無理だ。今携帯死んでるんだから。何とかなりませんか。

結局、コックさんと相談の上、それで収めてもらいました。今度行った時は、杏仁豆腐期待してますよ。あと、649円は、11時から深夜料金ということですが、お願いですから、メニューに明記してください。てなわけでした。

2008-07-11

娯楽性を満喫するためには

九月にディズニーランドへ行こうかという話が、出てきました。今までは、このようなMLでの連絡にはなるべく早く返信するようにしていたのですが、今回は、どう返信したものか、迷って、まだ返信していません。というのは、そういうノリ自体は好きなんですが、自分は本当にそのメンバーでディズニーランドに行きたいか?と思ったからです。

では、ディズニーランドが嫌いか?そんなことはありません。楽しい思い出が、たくさんあります。ですが、そんな思い出は、すべて、ALSAの受入国際企画のゲストが延泊した場合の訪問先として一緒に行った場合でした。それ以外にも、一度行ったことがありますが、あまり楽しめませんでした。尤も、あまり楽しめなかったその時はディズニーシーに行ったのですが、以前は楽しめたのにその時は十分楽しめなかったのは行った先が違ったからなのでしょうか。

なぜ、楽しめる時とそうでない時があるのか。前者の場合は、あくまで自分はもてなし役・案内役で、楽しんでもらいたい主体は、海外参加者でした。そして、その海外参加者が楽しんでいると思えれば、自動的に自分も楽しいと思え、逆に彼らが疲れたような表情をしていると、自分も微妙に凹んでいたものです。これは、考えようによっては、親子連れの心理とも似ているのではないかと思いました。親というものも、子供が楽しんでいるだけで、自分も楽しいと思えるものなのではないでしょうか。

もちろん、楽しいと感じるのは、自分がもてなし役・案内役である時だけであるはずはありません。実際、ジェットコースター系のアトラクションは、自分自身も楽しかった記憶があります。これについては、こう考えてみてはどうでしょうか。ディズニーランドのアトラクションは、究極的には自分で楽しむもので、友人と一緒に行って楽しいのは、あくまで楽しさが共振しているからに過ぎない。これと対照的な例は、スポーツであり、旅行なのではないかと思います。同じ目標に向かって、一緒に頑張っていく、あるいはお互いに相手に勝つために、本気になる、そういう楽しさの方が、もっと魅力的なのかも知れません。

2008-07-10

何にこだわっているのか

ST北海道に参加するか否か。参加するなら、何を目的にするか。文句ばかり言っていてもアレなので、自分ならどんな企画趣旨文を作るか、一念発起して考えてみました。

ALSA Japanは発足以来約十年間、ALSAという国際組織の日本支部として、東京都・神奈川県・埼玉県といった首都圏の一部の地域の大学に重点を置き、組織・体制の充実を図ってきました。しかし、各加盟大学で会員数も増加してきた今、次の時代の展望として求められることは、日本国内の地域の多様性を反映できる組織に脱皮し、名実ともにALSA内外に対して日本を代表できる組織となっていくことです。

幸いにも、今回私たちは、北海道でALSA支部を立ち上げたいという、北海道大学の有志の学生を得ることができました。私たちは、この機を逃さず、ALSA Japanの次の時代を北海道から切り拓いていくべく、このStudy Trip北海道2008を企画します。

もしこの趣旨で企画を実行した場合でも、単に北海道を楽しみたいという目的で参加する人がいることも、あり得ます。そういうモチベーションの多様性もある意味ではALSAの特色であり、それを知ってもらうことは有意義であり、むしろそういう人無しでは、北海道の有志の学生に嘘を付いているとさえ言えるかも知れません。なぜなら、会員全員が北海道でのLC設立に積極的賛成なわけではないですから。STの中でそのような人を説得し、あるいはモチベーションを変えていく、というのは、今後必要になるであろうALSA Japan内での手続を先取りして経験しておくようなものでさえあるかも知れません。

しかし、その逆は、あり得るのか。つまり、LC設立への意欲が、自分の方が企画としてより強い、即ち実行委員長より強い場合です。例えば、自分が最終目的としてのLC設立を考えたら、ここはこうすべき、と言ったとして、当然反対意見はあります。ただ、反対意見の種類は、おそらく二種類あります。

一つは、LC設立のために良くないといった類の意見です。この場合は、最終目標は共有できていて、その手段をどちらにした方がより効率的・効果的か、という議論です。なかなか結論は出しづらい場合もあるでしょうが、最終目的を共有できているのだから、まだ救いようがあるのではないでしょうか。

次は、暗黙の前提に挑戦することになるので、良くないという類のものです。つまり、単にLC設立が目的と言った時でも、通常は適切にLCを設立することが目的です。だから、適切でない形でLCを設立することは、実は良くないことなのです。ところが、その適切の指す内容が人によって違い得るところが、厄介なところです。言いようによっては、上に示した文案はむしろ企画目的と言うべきで、この暗黙の前提こそが企画趣旨なのかも知れません。いずれにせよ、この暗黙の前提を巡る議論をうまく乗り切るには、できるだけ事前に顕在化させ、対応策を練っておくのが良いと思います。

ちなみに、現実的に無理という場合があるという指摘があるかも知れません。しかし、結論から言えば、これは、ほぼすべてが第一か第二の類型に吸収されるのではないかと考えます。例えば、知る人ぞ知る、ST韓国2005の時の広島案の議論も、そうでした。どんなに無理そうに見えることでも、そのために必要なことを冷静に見極めれば、全く不可能なことは殆ど無いでしょう。ただ、莫大なコストが必要な場合も多いので、それだけのコストをかけることが適切(第二類型)と言える範囲内であるかどうか、というだけです。

ST北海道の話に戻りましょう。もし結果的に第一類型の議論ばかりであったなら、実は自分の考えている目標は共有できていた、ということになるでしょう。だとすると、今の趣旨文の書き方・自分たちの認識への認識が、間違っていたということにはならないでしょうか。それはそれで良いような気もするけれども、ただ、偽りの形で承認を得たものである、ということになり、それは良くない。少なくとも、今まで人がそのようなことした時は、強い嫌悪感を感じていました。

第二類型の議論が多くなってきた場合は、どうか。今回は、適切の定義、あるいはその適切さと本来の趣旨(目的)のどちらを優先するかの認識に関して、実行委員長(=企画自体)を含む多くの参加者と自分の間で違いが大きいみたいです。とすると、この類型の議論を強くすることは、企画自体に反抗することになるのではないでしょうか。とすると、それも、自分の望むことではありません。

考えるべきは、さらに次の次元へ進みます。即ち、自分が嫌悪感を感じたり不本意な議論をすることになってでも、この企画に参加する価値があるかどうか、です。この際、人のことを考えても仕方がない(本当に?)ので、自分のことのみを考えましょう。

例えば、自分は、そのような嫌悪感に対する耐性をつけておきたいのか。違うのではないか。むしろ、そのような嫌悪感には、敏感でありたい。不本意な議論をできるような人間になりたいのか。違うだろう。今後そうならないようにすることが、実は自分の就職活動の最も重要な方針だったのではないかと、今になって思います。それでも、今後の人生で、必ずそのような場面に直面する?そんな経験、自分から進んで今しなくても良いではないか。今、そして残りの大学時代の自分には、他にやるべきことがあるんじゃないのか。もともとは今年の春にはできたら良いと甘く考えていたALSA追憶の作成も、遅々として進んでいません。

この思考の前提に変更がない限り、今回のSTへの参加は、見送ろうと思います。

2008-07-08

尊敬できる人がいた

自分は、今の(walsaの)二年生は、去年のゼミフォーラムでがんばったので、二年生としては、自分の知る今までのどの代よりも素晴らしい、有望なメンバーがそろっていると思っていました。そして、密かに、三年生、がんばれ~と。

しかし今、ST北海道の議論をしていて、今の一年生には、去年の一年生以上の情熱と力を感じています。現時点では、まだLCのない大学から二名、数年前にLCができた(復活した)ばかりで、また二年までと三年以上でキャンパスが分かれていることもあって上級生の少ない大学から二名、そしてwalsaから一名です。

これって、上級生の数が充実しているLCは、やっぱり緩くなりがちだと思うのですが、そのせいなんではないかと勝手に推測したくなります。今年はあまりwalsa等の一年生と接していないので、そんなことを言うのは無責任過ぎかも知れませんが。

とにかく、そんな後輩を持つことができたことに、感謝しています。ただ、自分の信条を貫くために、彼らとともに携わろうとしている企画から手を引かざるを得なくなる見込みがあり、それが大きくなってきていることは、残念ではあります。

2008-07-07

譲れないもの

ST北海道の議論を、しています。一つの重要な論点は、企画の目標・趣旨の重点を、LC設立に置くか、国内他地域の法学生との交流に置くか、或いは両者を同等に重要なものと考えるか。

今日の会議で、一度は一番目の方向で認識を一致できたような気もしたけれども、最終的には現段階では二番目の方向で認識している人が多そうな状況でした。そして、自分が一番目の方向を明確に意識していて、かつそれは自分がST北海道に参加するならば絶対に譲れない点であるということも、今日の会議を通じて、わかってきました。

もし実質的に新LCを設立することを目指すなら、別にST北海道参加者で共通認識を取らずとも、自分がその目標のために働き、実現できれば良いのかも知れません。しかし、仮にそれが可能なことであったとしても、そうしたいとは思いません。国内の他地域に新LCを設立することが、自分にとって魅力的であるのと同じように、同じ企画に参加する仲間と目標を共有し、そのために一緒に全力を尽くすことが、自分にとって魅力的でありかつ重要であるから、なのでしょう。

言い様によっては、前者は実体的な問題であり目標、後者は手続的な問題であり目標かも知れません。そして、手続的な問題に固執するのは、形式的に過ぎると批判する人もいるでしょうし、自分自身がそう思うこともあります。確かに、最近自分が気付いた事として、何か企画を実現するためには、その企画の客観的な意義が重要であるのと同じかそれ以上に、それに携わる人がその企画にワクワク感を感じることが重要です。そして、形式的な問題・目標にワクワク感を感じるよりはより実体的な問題・目標にワクワク感を感じることの方が魅力的だし、自分自身もそうでありたいと思います。

ところが、客観的な価値としては、実体的に絶対的な善は存在しない(ことが多い)のではないか、とも考えられます。もしそうであるなら、実体的な問題・目標が善であることの根拠になり得るものは、そこに至る手続的な部分が善であるということしかない(ことが多い)、かも知れません。となると、手続的な問題にこだわることは、決して単に形式的なだけではなく、実体的な善を目指すために最善を尽くしている、と言うこともできます。

いずれにせよ、今自分がこだわろうとしていることは、LC設立という目標からすれば、手続的なことかも知れず、しかもその手続的なことにこだわるあまり、場合によってはその手続の先にある実体的な目標すら放棄することを視野に入れていることは、果たしてそれが良いことであるのかどうか、何とも言えません。ただ、二つ言えることは、このことは現在の自分の心境としては間違いのないことだということであり、そうやってこだわりたいこと、譲れないことのある自分は、幸せ者だということです。

2008-07-06

ルビ(ふりがな)を振ります

友人とチャットをしていました。

今何してるの?

ウェブ上の記事を読んでる。こんなの。

何これ。漢字読めないよー。

というわけで、ウェブ検索をしてみたら、見つかったのが、AddRubyというサービス。使ってみると、こんな感じになります。いいですね、これ。

2008-07-05

自己中心的に見ると、「今のALSA三年生」は

ALSA(ALSA Japan)の同期とは、ST韓国05の時に、徹底的に議論をしました。尤も、途中で自分はTCという役目に転出してしまったけれども。ただ、あのまま自分が実行委員という立場で関わり続けていたら、極端に言えば、企画自体を崩壊させたり、あるいは一緒に企画に携わっていた多くの人を離脱させていたかも知れません。その後も、同期とはNBと一般会員という立場で、議論する機会は多くありました。

今の四年生は、当時彼らが一年だった時のST韓国05でも議論したし、その後CCPでもともに企画に携わった友人がいます。彼らがNBになる時・実際にやっている時も積極的に議論に参加していた自分は、彼らを辟易させていたかも知れません。

今の二年生は、去年のゼミフェスティバルで、ともに企画に携わりました。自分も絶対に遠慮しないし、彼らにも学年が離れているからと言って遠慮して欲しくなかった。今から考えると、記憶は美化されるという要素はあるにせよ、それができていたのではないかと思えます。

それに比べ、今の三年生は。実は、自分が、徹底的に議論をした人が殆どいない代と言えるかも知れません。NBの選挙にも行かなかったし、任期中の二月CMでも、実質的な議論には参加しませんでした。自分は、あまりにも(表面的な意味で)優しい先輩であろうとしてしまったのかも知れません。

こんなことを考えてしまったのは、今の三年生についての批判を聞いた時でした。その批判が当っているかどうかはわかりませんが、自分の記憶では、そのような状況は、経験したことがありません。今までこんなことは無かったのに、今だけこうなってしまっているように思えます。そしたら、その遠因は、ひょっとして、自分との関わり方の違いにあるのではないか。こんな考えに至ってしまった自分は、とても傲慢で、哀れですらあるかも知れません。でも、そう悲観的に考えても仕方が無いので、せめて、自分がそう勘違いできる状況があるという幸せさに感謝したいと思います。

2008-07-02

「ST北海道」に行きましょうか

ALSA Japan関係者の皆様、何分新しいことなので、ご意見・ご助言をよろしくお願いします。

さて、最も重要なのは、このST北海道によって誰(何)に何をもたらしたいかだと思います。