2008-10-31

カラオケの最後は

カラオケって、やっぱり大事なのは選曲ですよね。どんな人と行くかによって、その場にいる人みんなが知ってる(好きな)曲を入れてみんなで歌う感じになるか、ある程度はお互いに知ってるだろうと思われる曲をそれぞれが歌う感じか、その場にいる人が知ってるかどうかにはあまり関係なく、ネタとして面白い曲が多くなるか、あるいは、何か縛りをかけていくか。気心が知れた人で人数が少なければ、練習のような感じになることもあったり。

そんな選曲で、難しいんだろうなぁと感じるのは、選曲の軸の定まってない一番最初と、後のない一番最後です。一番最初は、まぁ、えいやっと入れてしまえる人が、わりとほかの人も知ってると思われる曲を入れることが多いように思います。

問題は、最後。数年前は、特に同じ大学の人ばかりだと、校歌を締めにすることもよくありましたが、近頃は、そういうことは、めっきり少なくなりました。たまたまかも知れませんが。いずれにせよ、みんが知ってる曲を入れる、というのが暗黙の了解なように感じます。

しかし、それだけでは終わりません。これが最後、と思って、みんなが知ってる曲を入れて、終わったら、荷物を片付けて順番に退出しますよね。そのときに、何だかよくわからない宣伝のような音が流れてるのって、微妙じゃないですか。というわけで、最近自分が最後の曲(?)として実践しているのが、螢の光。別に、取り立てて歌ったりするわけではありませんが、流しているだけで、何となくいいなぁ、と思ってしまいます。よかったら、実践してみてください。

2008-10-21

Re: GCM議事録概要

多分こういう場に書いても問題ないんじゃないかなぁと思いつつ。独りごちます。

各国でNGAを年一度ほど開催しよう!

結論自体は、基本的には良いことでしょう。ただ、どのような理由・目的があってそう言うのか、反対意見・慎重意見にはどのような理由があって、それを巡ってはどのような応酬があったのか。そういう点をはっきりさせるような骨太な議論をしてほしい。そういう議論なら、時空を超えて普遍性を持つと思うし、世代を跨いで蓄積していく価値のあるものになると思います。

ELSAICMにもっと行こう!(特にIB

なぜでしょう。確かに、自分も、視野を広く持つという意味では、良い経験になるだろうとは思います。しかし、具体的な使命を帯びて行くのではないなら、取り立てて役職者だからと言って行く必要があるという話ではないのではないような気がします。そして何より、これがある程度良いことだとしても、もっと重要なことがあるのでは?という気がします。

ALSA全体のOBOG組織を作ろう!

これも、優先順位が高いとは思えないですが、やること自体は悪くはないのではないかと思います。ただ、最初が肝心ですから、趣旨・理念の設定や制度設計はしっかりしてから始めるべきですね。

ALSA全体のパートナー獲得に向けて

本題からは外れますが、日本で学生がドル建てで口座を作れないというのは本当だろうか。自分が聞いていた話とは違うのだけれども・・・。それにしても、このパートナー獲得も、そんなに重要なこととは思えません。なぜ重要なのか、理由の説明をはっきりしてほしい、理由の説明をはっきりするような団体であってほしいですね。

2008-10-13

敬称

ゼミの発表資料で、取材調査に協力して下さった方の名前を紹介しようと思って、ふと立ち止まりました。敬称は、何と書くべきなんだろうか。

ウェブ検索をして、最初に目に留まった記事は、ジェンダーの盲点。敬称としてのさんの違いは、隠れた階級差別を反映するものだという。つまり、その(少なくとも)二段階の階級を定義する要素が、典型的な男性像・女性像のそれぞれの要素と重なるため、ジェンダー差別に近い状態になっている、ということなのかな。

「さん」と「氏」の奇妙な使い分けは、その階級についてもっと掘り下げようとしているようです。企業経営や公務などにかかわる公的な(かしこまった)立場を持って社会生活を送っている人間第一ランク私的・情緒的な世界に生きている人間第二ランクと意識されることが多いと論じています。女性は「去勢」された存在も、同様の立場で書かれた記事と考えられます。

また、女性に「氏」教えて!goo)では、上記記事で批判的に分析されている立場に基づく意見が見られるほか、女史という言葉についても触れられています。

さんの使い分けが、本来的に公人私人のような区別であるなら、それらの言葉の使い分けには、問題はない気がします。但し、その判断をするに当って、ジェンダーの要素は排除しようということですね。ただ、殊今回自分が直面している文脈では、公人的な人と私人的な人を同列に扱う可能性があり、その場合、同列なはずの両者の扱いに差があるとしたら、違和感があります。

そもそも、敬語というものは情緒的・感情的なものであるのに対して調査研究は情緒・感情を極力排除したものとも言える気がします。それならそうで、調査研究の文脈では敬語など全く使わなければすっきりする、とも言えますが、調査研究と言えども、必ず何らかの形で社会的な関係性の中に位置づけられており、そこから逃げることはできないのも、また確か。これは、調査研究を行う上での、大いなる矛盾と言えるような気もします。

2008-10-09

水着・・・つまり海パン

数日前、何かのミーティングだったか飲み会だったかに行った時に、今日は海パンじゃないんですか?と聞かれました。そんなに、夏だからといっていっつも海パンだったわけではないんですけどね。しかし、その言葉を聞いて、やばい、今の自分は周囲の期待に応えられてないぞという危機感を強くしました。

そして、今日。昨日雨の中を歩いたこと、しかも昨日朝にズボンも含めて洗濯したばかりだったこともあり、ズボン(及びそれと同等の機能を有するもの)の選択肢がかなり少ない状態になっていました。黒い長ズボンがあったので、それで行こうかとも思ったのですが、やっぱりはいてみるとめちゃめちゃきつい。こりゃ、往復一時間自転車に乗ったらすぐに汗くさくなるな、しかもいつ破れるかわかったものじゃない・・・むしろ、足を通した瞬間にどこかでビリッという音がしてたようなしてなかったような。

ここで、目に留まったのが、海パンでした。もう、時間もないことだし。既に授業の時間が始まってます。他に選択肢はない。久しぶりに、海パン君の出番がやってきました。

それにしても、まだ後期が始まったばかり。キャンパスには人がたくさん。心なしか、自分が怪訝な表情で見られてる気がしました。あ、また自意識過剰か。それにしても、この海パン派手だなぁ。

2008-10-04

メガネが無え

先日学生証の入ったペンケースをレンタカーの中に忘れ、携帯電話充電器端末室に忘れたのに続き、今度はメガネを紛失しました。

恐らくメガネも同じ端末室に忘れたのではないかと思ったのですが、届けられていませんでした。のどこかにあるかと思って探してみましたが、ありませんでした。ひょっとしたら、自転車に乗りながら鞄の中をごそごそ物色している時に誤って落としたのかも知れません。そうなると、お手上げです。

そもそも、このメガネは、度が弱い控え選手で、主にパソコン作業の時にのみ出場していました。しかし、現在レギュラーのメガネは、怪我に応急手当をしながら出場を続けている状態で、来年春には引退させて、コンタクトレンズへ交代することを考えていましたが、コンタクトレンズはスタミナがあまりないので、そうなると尚更、控え選手としてのこのメガネに期待がかかるところだったのです。

2008-10-03

親友と思う理由

いた時も感じていたけれども、いなくなって改めて、ひしひしと感じる友人の存在感があります。

第一に、優しかった。自分がどんなに詰まらない発言をしても、いつも拾ってくれたし、無理なお願いも聞いてくれた。これは、とても自分にとっては大事なことです。そしてさらに、ありがたい助言まで付けてくれることが多かった。これは、優しいだけではできないことで、賢いということの一つの意味と言えるかも知れません。それに、自分のことを何かにつけ心配してくれた、という優しさもありました。

そして、素直で、余計な遠慮がなかった。自分が言い過ぎた時には、余計な遠慮などせずに言い返してくれた。自身を飾ろうとしていなかった。飾ろうとしてできていなかっただけかも知れないけれども。いずれにせよ、結果的には自身を飾っていなかった。

ここで挙げたことは、あくまで自分から見てそうだった、というだけで、何らかの意図によって、そう振舞っていただけだ、という可能性が無いわけではありません。でも、自分としては、ほぼ丸々四年間の間何度も接する中で、本当にこういう人間なんだろうと確信できたことだったので、騙されていたわけではないと信じています。そもそも、そこまで騙す利益もないはずですから。

それに、大学の四年間はそうであったけれども、今後、付き合う人の種類がどんどん変わっていくに連れて、本人の人間性にもひょっとしたら変化が生ずるかも知れない。それはその通りで、ここで述べたのはその人物の過去についてであって、いつかまた会った時もそうだとは限りません。しかし、それを言ってしまったら、自分自身が大きく変わってしまっている可能性も同じようにあるわけで、たとえ相手が変わっていなくても、自分が変わることで相手の見方が変わってしまうこともあり得るわけです。でも、今後将来のことはわからないとしても、過去にこれほど親友だと思えた友人がいたということ自体が、自分にとっては大きな精神的財産なんだろうと思います。

逆に、ここで形容したことは、自分が人間としてあるべき姿であるかも知れません。正直、そこまで人に優しくするのは無理な気がしていますが、自分が自分を変えていくための、そして自分が人を見る時の参考にしていきたいと思います。

ちなみに、最近自分は関西人ではないのに話にオチを求める傾向があることに気付きましたが、そこにもこの人物の影響があるのかも知れません。