いた時も感じていたけれども、いなくなって改めて、ひしひしと感じる友人の存在感があります。
第一に、優しかった。自分がどんなに詰まらない発言をしても、いつも拾ってくれたし、無理なお願いも聞いてくれた。これは、とても自分にとっては大事なことです。そしてさらに、ありがたい助言まで付けてくれることが多かった。これは、優しいだけではできないことで、賢いということの一つの意味と言えるかも知れません。それに、自分のことを何かにつけ心配してくれた、という優しさもありました。
そして、素直で、余計な遠慮がなかった。自分が言い過ぎた時には、余計な遠慮などせずに言い返してくれた。自身を飾ろうとしていなかった。飾ろうとしてできていなかっただけかも知れないけれども。いずれにせよ、結果的には自身を飾っていなかった。
ここで挙げたことは、あくまで自分から見てそうだった、というだけで、何らかの意図によって、そう振舞っていただけだ、という可能性が無いわけではありません。でも、自分としては、ほぼ丸々四年間の間何度も接する中で、本当にこういう人間なんだろうと確信できたことだったので、騙されていたわけではないと信じています。そもそも、そこまで騙す利益もないはずですから。
それに、大学の四年間はそうであったけれども、今後、付き合う人の種類がどんどん変わっていくに連れて、本人の人間性にもひょっとしたら変化が生ずるかも知れない。それはその通りで、ここで述べたのはその人物の過去についてであって、いつかまた会った時もそうだとは限りません。しかし、それを言ってしまったら、自分自身が大きく変わってしまっている可能性も同じようにあるわけで、たとえ相手が変わっていなくても、自分が変わることで相手の見方が変わってしまうこともあり得るわけです。でも、今後将来のことはわからないとしても、過去にこれほど親友だと思えた友人がいたということ自体が、自分にとっては大きな精神的財産なんだろうと思います。
逆に、ここで形容したことは、自分が人間としてあるべき姿であるかも知れません。正直、そこまで人に優しくするのは無理な気がしていますが、自分が自分を変えていくための、そして自分が人を見る時の参考にしていきたいと思います。
ちなみに、最近自分は関西人ではないのに話にオチを求める傾向があることに気付きましたが、そこにもこの人物の影響があるのかも知れません。
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