何のために生きているのか。それがわからなくなってどうしようもなくなった時、自主性、自主的にという言葉が、解決の糸口になるかもしれない。
自主的とは
辞書によると、他からの指図や干渉によらずに、なすべきことを自分の意思に基づいて行うさま
。このなかで、注目したいのは、なすべきことという部分と、自分の意思に基づいてという部分です。
まず、第一の仮説。何をなすべきか、という問いに対する答え、そしてその優先順位や可否の判断の結論は、複数あることが多いのではないだろうか。例えば、当人の立場から考えるのか、周囲の立場から見るか、またどのような考え方に立つか。なすべきこととは何か、という問題から生まれてくる葛藤もあるでしょう。
もう一つの、自分の意思に基づいてという点も、当たり前のようで、なかなか難しい。極論をすれば、自律神経系に制御される行動以外はすべて、随意なのだから、自分の意思に基づいて
いるんじゃないかとも言えます。
さて。
以上のようなことを踏まえると、自主的という言葉を、もう一歩踏み込んで定義できるんじゃないか、というのが、第二の仮説です。即ち、(○○に対して)自主的であるとは、周囲の(○○の)期待することを、特に、それに従わざるを得ない状況でも、あたかも自らの独立した意思によるかのように行動すること。
例えば、自主練、自主トレ。訓練の量としては必要と思われているものの、何らかの事情によって、強制したり制度化したりするのが難しい場合に使われたりしていないか。自主規制は、必要と思われる規制を、あくまで強制されているわけではない形で実施することなのでは。
では、自主的の何が善いか
一つには、周囲の期待に応えるわけだから、周囲との関係が円滑になる。さらに、自分の意思に基づいて行動していることを自覚することで、個々の行動に前向きに取り組めるようになり、責任感や行動の改善にもつながっていく。周囲から見て良い人に見える、という意味では、自主的であることは、重要なことであるように思えます。
一方で、もちろん、自主的に行動することには、難しい点もあります。まず、周囲が自らにどのようなことを期待しているか、理解しなければいけない。その上で、自分というものを、をある程度抑え、周囲の期待に合わせていかなければいけない。さらに、周囲から半ば強制されているように思われることでも、人のせいにするのではなく、あくまでも自分の意思で行うと考えるように、自らの心をコントロールできなければいけない。言うなれば、賢さ、冷静さ、そして強い心が必要なわけです。
何のために生きているのか
自主的である、ということには、ある程度の難しさがあるとは言え、何のために生きているのかという問いへの答えを探す上でも、有力な手がかりになるんじゃないか。そのように思うわけです。
まず、人は、強制的に、生まれる。そして、生き続けることを、(半ば)強制される。親戚関係も、自らは選べない。生まれる時期や場所にしても、然り。そんな中でも、あたかも自らの意思でそのような条件を選んだかのように考え、前向きに振る舞い、生きること。ある意味では、究極の自主性と言えるかも知れません。
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