2010-11-28

盛り盛り

いまや自己PRで「盛る」のは当たり前!?就活学生に横行する“ウソ”と彼らの顛末という記事がありました。ちょっと興味深かったので、感想を記録しておきます。

面接などで、自分について話す場合に、誇張や作り話が許されるかどうか、という問題です。この記事での結論らしきものは、一般的にはそもそも誇張や作り話は多少色をつける程度でないと、結局は自分のためにもなりませんよ、という助言といったところでしょうか。ただ、その例外として、誇張や作り話(をしっかりと話せること)が、肝っ玉が据わっていると見られることも、全く無くはない、と。また、実際に誇張や作り話によって採用試験を通過したとして、よっぽど採用の前提となるような点について虚偽の説明をしていたのでない限り、法(私法)的に問題となることはないものの、本人が恥ずかしいを思いをするだろう、ということのようですね。

しかし、自分が今の生活で痛感するのは、はったりをかますことのできる能力の重要さ(便利さ、もしくは業務上の必要性)です。その意味では、面接などで、最初から最後まで筋を通して誇張や作り話を話すことができるなら、それは企業側としても歓迎すべき能力なのではないか、とすら思います。問題は、採用担当者がちょっとひねった質問をしただけで誇張や作り話であることが悟られてしまう、その能力不足(準備不足)にあるのでしょう。そしてそもそも、その誇張や作り話は、採用担当者側にとって魅力的なものでなければ、意味がありませんが、実はそれは、面接という形を取る以上、純粋に真実の話をしていても、求められることでしょう。即ち、面接という方式において重要なのは、いかに試験する側のニーズを汲み取り、試験する側にとって魅力的なプレゼンテーションをするか、ということであって、その内容が真実であるか否かは、あまり関係が無いのかも知れません。注意すべきは、恐らく二点あって、一つは、ゼロから作り話をしたり根拠の無い誇張をするよりも、真実に基づいた話をする方が、より筋を通すことが簡単である、ということでしょう。自分の持っている真実の相手にとっての魅力と、相手にとって魅力のある作り話・誇張を矛盾なく説明する自分の能力を冷静に比較衡量して、いずれが勝っているかを判断すべきなのでしょう。もう一点は、現実にそうなっているのかどうかはわかりませんが、社是や採用に当たっての謳い文句として誠実さなどを強調している企業であれば、多少魅力的でなくてもより真実の話をしている人を採用するだろうし、恐らくそうすべきでしょう。その意味では、まさに、相性によるところが大きいと思えます。ちなみに、性善説(?)に立つとして、人間魅力のない人なんて(基本的には)いないのだから、自分の持つ真実に魅力がないなどというのは、単に本当はあるものを見出せていないだけで、作り話などするより自分のよいところに気付くことの方が早い、ということなのかも知れません。

ちなみに、この一つ前の記事では、就職活動がうまくいかない例を引き合いに出しながら、就職・採用活動を巡るそれぞれ立場における状況を解説しています。ここで引かれている例では、面接の直前にその企業の新製品の開発について、全国紙の経済面に記事が出たのに対して、試験を受けている学生がそれを読んでいなかったために、話を発展させられなかった、と。この事例については、企業側・学生側双方に判断のよくない点があるのではないか、という気がします。企業側については、まさに新聞に出ていい気分でいたのをぶち壊しにされてむかっと来たということだと思いますが、その程度のことで、既に評価の高かった人の評価をひっくり返してよいのか。そもそも、社会的に注目されている、と思っていた自らの方が少し社会が見えていなかったのであって、本当はそこまで注目されていないことだったのではないか。だとしたら、それで気分を害する方がお門違いだし、ことにこの事例のように企業の上層部についてのことであれば、裸の王様であることの一つの典型例である気もします。尤も、採用の方針として、企業についての情報収集という意味での愛社精神のようなものを事前に求めるのであれば、あるいは面接の際に相手方について最新情報の収集をしておくことが学生に求められる誠意であると考えるのであれば、この問いは意味があるでしょう。その意味では、やはり相性の確かめ方の一つの手段と言えるのかも知れません。ただ、最低限、どういう会社でどんな製品や事業が主力なのか、それくらい分かって欲しいというコメントがありますが、能動的に調べることを期待するのか、知っていることが大事なのかによってだいぶ解釈の仕方は異なってくるでしょう。誠意を求めるのであれば能動的に調べるのが大事でしょうが、相性や適性を見るのであれば、情報提供は面接中に企業側からしてもよいわけで、むしろそれに対してどのように応答するかの方が、判断材料としては重要なのではないでしょうか。ちなみに、余談ですが、新聞くらい、1日5分でも読んでいればというコメントがありますが、時期にもよりますが、スポーツ欄を読んでいるだけで5分くらい経ってしまうのでは。また、企業側と一括りにせず、採用担当者に注目すれば、こんなことも考えられます。面接を担当するであろう上層部の関心が最新情報にも及ぶことが、事前に予想できなかったのか。できたのであれば、前回の面接の後にでも、助言をすることができたのではないでしょうか。あるいは、学生の応答は、緊張によるものだったかも知れません。緊張しているんですよね、という形で、面接中に救いの手を差し伸べることはできなかったのか。もし採用担当者としてその学生を入社させたかったのであれば、もう少しやりようがあったのかも知れません。最後に、学生(試験を受ける側)から見た場合、この事例に関して言えば、本当にこの企業に入りたかったのであれば、相手方について勉強不足だし、そうでなければ、相性が悪かった、ということになるのでしょう。また、新聞はあまり読んでいませんという表現も、それをそのまま口にしたのであれば、さすがにぶっきらぼうですよね。新聞は読んでいなくてもウェブでニュースは見ている、などと言いようはあったでしょうに。あるいは、無難でない路線で行くなら、新聞の報道姿勢には賛同できず、購読することは消費者として一票を投じることになるので、購読していない、などと積極的に答えることもあり得るかも知れません。自分の場合は、そのように踏み込んだところまで発言して、それでもよいと判断してくれたところには喜んで行きますというやり方をしていましたし、自分が担当者だとしても、そういう人には興味を持ちますよね。大学の就職課からの見方としては、学生に助言をしようにも、人格攻撃と言われかねないそうで。本当に人格攻撃をしていたのでなければ、その程度のことでヒステリックになるのは本人にとってもよくない、ということなのでしょう。ミクロ的にその人に対する救済策を考えるのであれば、そのような性質の人でも働けそうな職種・職場を何とか探し出し、学内でより積極的に告知をしていくしかないでしょう。よりマクロ的に考えるのであれば、在学中にそのような面を鍛えられるよう教育プログラムを再検討するか、そもそも入学時選抜の時点での選考基準に加えたり強化したりするか、という判断になってくるのではないでしょうか。そして、就職に振り回される大学の教員。ミクロ的に見れば、例えば就職活動による欠席は公欠とは認めない、とか、どこまで強硬手段を取れるかは、大学や学生との関係によりますよね。よりマクロ的には、そもそもそのような考えを理解してくれる大学や理解してくれる学生のいる大学を選ぶべきだし、また、学生と議論して、今後自分のゼミから出た学生が企業で働く際にはそれが問題だと認識してもらえるようにするのも一つの方法かもしれません。そして、親。あんたもどこかまずいから落ちるんでしょ。それは反省しなさいね。人って、きっと、親しい人からは、総論として信頼されていること、各論としてよくないところの意見をもらうことが力になりますよね。自分も気を付けなくては。

ところで、今回話題にした、誇張や作り話を、就活用語(?)では盛る(もる)と言うそうですが、先日地球シミュレータを案内してもらった時に説明担当の方が口癖のようにおっしゃっていたおもしろい言葉が、盛り盛りでいきます。今から思えば、誇張や作り話(!?)もアリで行きます、ということだったんでしょうか。

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