読むべき本を求めて、たまたま『社会学入門』という本を読んでいました。まさに書名からして関わるゼミの研究についてはもとより、自然科学に関しても、なかなか興味深い問題があったので、ご紹介します。
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自然科学的研究手法と社会科学的研究手法は本質的に異なるのかどうか
同書180頁の記述に拠れば、自然科学的研究手法とは、規則性と斉一性の存在を前提として、これを客観的な観察と実験を通して経験的に明らかにすることである、ということになります。一方、それに対置される手法は、諸事実の意味連関の把握を重視し、個々の事実をより大きな意味的全体の部分として統合的に理解する、ということ(同書181頁)です。筆者は、前者を科学的方法と呼び、後者を理解の方法と呼んで、社会学的実証研究はこの両者が相互補完的に機能しあって構成されている、としている。
ここで生じる疑問は、次のようなものです。
- 自然科学の研究においては、後者の手法は使えないのか。
- この二つの手法は、本当に本質的に異なるものなのか。
- そもそも、自然科学・社会科学の研究手法には、この二つに含まれない手法はないのか。
ちなみに、自分自身を振り返ると、そもそもゼミの研究手法自体、後者を志向するものであって、自分も無意識的に後者の要素をより先鋭化させるように考えを進めていっていたように思います。
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科学的であるということは、論理的であるということとどう異なるのか、或いは異ならないのか
本書187頁には、研究者が研究対象たる社会に深く入り込み、内部者としての地位を獲得することを通して得た知見に基づいて行った研究を称賛する文脈で、
科学的方法による説明とは異なる、心理主義的もしくは論理主義的な主観的明証性と解釈可能性にもとづく独自の対象把握の世界が見られる
と述べられています。ここで生じる疑問は、科学的であるということは、論理主義的或いは論理的であることと、どのように違うのだろうか、という点です。自分自身を振り返れば、最初の論理的思考との出会いは中学の数学(幾何)だったような気がします。数学も自然科学のうちであるなら、科学的であるということが論理的であることと対立的に捉えられることは、矛盾しているように感じられます。論理主義的であるということと論理的であるということの違いも整理できていませんし、自分の理解の仕方に違いがあるんだろうとは思いますが、ちゃんと考えたら、(少なくとも自分にとっては)新たな発見があるような気もします。
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態度と意見
ここから先は、自然科学には関わりません。
社会科学における代表的な科学的手法が定量的調査であって、しかも定量化が難しい人々の意識を定量化しようとする手法として意識調査がある、という前提で、本書204頁には、次のような記述があります。
意見は、特定の事象にたいして個人が下す評価や判断であり、態度にくらべて認知的要素がより強い。態度は、ほぼ論理的整合性をもち安定しているが、意見はデマやマスコミによって状況の認知が攪乱されるので、論理的に矛盾したり、短期間に変化することもめずらしくはない。
ここでの疑問は、意見と態度に、本質的な違いがあるのかどうか、ということです。もしなければ、敢えて異なる二つの語を用いる必要はなく、単に深い意見と浅い意見とでも言えばよいのではないか、ということになります。でも、感覚的には、やはり意見と態度に本質的な差があるような気もしていて、もしそれが本当にあると言えるなら、それは興味深いことだなぁと思います。
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アイデンティティーという語の邦訳について
ここから先は、本書の内容には関係しません。
同書207頁から、
帰属意識についての調査
に触れられています。そこから、連想したこと。帰属意識と言えば、アイデンティティーという語の訳・言い換えとしても使われる言葉。そう言えば、アイデンティティーという語の言い換えとしては自己同一性という語をよく聞く気がするけども、以前からそれに違和感があったところです。と思って「外来語」言い換え提案を見てみると、アイデンティティーの言い換え語は独自性・自己認識となっています。前者は、そもそも言い換えとして正しいのかどうか疑問、同じく前者を使用した用例についても適切なのかどうか疑問に感じるところがありますが、後者については、まさに自己同一性などと同様な含意を持つものに感じられます。
実際、自己認識という言葉は、自分にとって、アイデンティティーという語が指すと思われる含意に、かなり近いように思われます。しかしそれでも尚、提案してみたいと思った語は、自己定義です。認識と定義という語を比較した場合、前者がより客観的・受動的に対象をあるがままに知るという含意が強いのに対し、後者はより主観的・積極的に対象を自分なりに捉えなおす、という含意があるように思われるから、そしてアイデンティティーという語の含意は後者により近いように思われるから、です。
・・・と、何の根拠もなく自分の感覚を述べ立ててもあまり意味がないので、今後色々な人と話をしたり、ものを読んだり、その他経験をする中で、根拠を見つけたり、或いは自分のこの感覚を修正できればいいと思っています。
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ゼミの研究目的は何か
この点については、もはやどう本書と関係するのかさえ、この記事を書いている今となっては忘れてしまいましたが・・・。しかし、本書の内容に触発されて思いついた、ということだけは確かです。
ゼミでは、先生の理論を適用するのが我々の研究だ、という主張(というほど論議を戦わせているわけではなく、特に議論を発生させなければ当然の前提と思われている節もあるので、理解とでも言うべきでしょうか)が見受けられます。
ここで思い出すのが、日本政策学生会議の説明会(?)に行った時に聞いた話です。あれは、2006年7月2日、一つ上の代の幹事長と同期一人、合計三人で、慶應三田キャンパスへ行ったのでした。そう言えばあの時は、初めて彼の地へ自転車(先代)で行って、警備員さんに駐輪場がない、と言われて驚愕・憤慨したものでした。あの時は、本当に自分は大学選びで失敗しなかったと思いました。それはともかく、その説明会(?)で聞いた話は、学部のゼミでの研究は、先生の考えや理論に捉われず、自由な発想でやりなさい、という趣旨のようなものだったと記憶しています。慶應かどこかの先生が、講演のような形で話していたのでした。そのことの意味は、ずっとよくわかっていませんでしたが、今になって初めて、そういうことだったのか、と思います。
院生と違って(いや、院生も、と言うべきなのかも知れませんが・・・)、学部生は、先生の研究の手伝いをしているわけではないのだから、指導・助言は受けながらも、独立した研究をやるべし、ということだったのかなぁ、と思います。特に自分がいたゼミについて言えば、扱っている主題自体、先生が現在進行形で関心を持って研究をしている(恐らく)主題とは既に違っていますし、教科書のようにして使っている書籍も、だいぶ古いものです。
是非、先生の理論の後追いをする、ということではなく、不完全なものでもよいから、新たな理論を構築する、という意気込みで研究をやってもらいたいものです。自分自身、ゼミにいる時間が経つにつれて無意識的にそのような思いを強くしていったような気がしますが、自分自身で意識を明確化できなかったこともあって周囲と共有することが出来ていなかったと思います。自分の班、或いは自分の担当範囲ではそれを目指していても、それ以上に広げることができず、言うなれば、志半ばにして、という感じでした。学部生の専門性が低いのは当然の前提ではありますが、比較優位性の問題として、より発想の転換や新たな着想が重要な、野心的・根本的な挑戦をした方が、自らにとっても、また成果としてもよいのではないか、と今は思います。
本書の内容に関係するところで言えば、理解の方法に基づく研究手法(代表として、事例研究法)は、科学的方法に基づく研究手法(代表として、統計的方法)による論理が客観的妥当性を持つのに対して対極にあるもの、と位置付けられています(本書183頁)。是非、この壁を超える研究、理解の方法に基づきながらも客観的妥当性を持ちうる研究に挑戦してもらいたいものだと思いますし、自分は、このゼミであれば、できる挑戦だと思っています。
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