地域連携と地域競争力という科目を受講しています。シラバスに政策担当者や自治体関係者を含む講師によって
と書かれている通り、ときどき、政治家とか、役人とか、企業経営者の人が来て話をしてます。
それで、科目の趣旨と異なる話が多過ぎるのではないか、という違和感を感じてなりません。それは、たまたま講師として来ている人の思想・信条が自分と違うからなのかも知れません。しかし、それにしても。関係のない話、会社の宣伝や政治演説のような話が多過ぎませんか。
ただ、これだけでは個人的な違和感というレベルに留まってしまいます。もっと、何かしら根拠をもって、会社の宣伝や政治演説のような話を授業でするのはおかしい、と言えればいいのですが。
例えば、去年のこの時期、シルマン・ハイテクベンチャー講座という科目を受講していました。その講義は、毎回がベンチャー企業の宣伝で、その点に関して言えば地域連携と地域競争力の目じゃありません。でも、当時、そのような宣伝が講義の中でされることについて、今感じているような違和感は、感じなかったように思います。その、違和感を感じなかった、ということに、何かしらの原因を求めるとしたら、それはどのようなものになるでしょうか。
科目の趣旨と異なる話はよくない、と言ってしまうと、所謂余談はどうなるんだ、となります。即ち、そんなこと言ったら、余談もなくせということになってしまうが、それでよいのか、それではつまらないじゃないか、と。それで、なくなってほしくない余談を考えてみます。果たして、どんな余談が、余談として優れているんでしょうか。
自分の、一つの答えは、こうです。比喩的に、その話の本論につなげられる余談こそが、優れた余談なのではないか。もちろん、聞いていて(普通に本論を話すよりも)面白い、ということが前提となりますが。本論につなげられない余談で必要性が認められるものは、せいぜい、聴衆の集中力を保ち関心を保つために行われるもの、ではないでしょうか。あまりに話が順調なために聴衆が眠そうだったら、あえて(本論とは無関係に)順調じゃなくしてみる、というようなことが技法としてあり得るなら、それこそが聴衆の集中力保持のための余談だと思います。
結局、この科目に講師として来てくれた方々のうちの何名かは、自分にとっては本論とは無関係に思える話が長く(又は時間的には長くなかったとしてもそちらの方が熱がこもっていたので印象的であり)、よって本論としては勿論余談としても評価できない話が多く、その講演全体を対時間で評価するならば、低評価をせざるを得ない、ということになりましょうか。
尤も、その講演が、評価できない部分があったことを補ってあまりあるほど素晴らしい部分があった、ということならば、話は違ってくるのかも知れませんが。その点、一回目にこのような違和感を感じた時は、質問する気も起きなくて、というよりも、質問をすること自体が消極的にその講演内容に(そのような講演内容をその場でするということに)賛意を示すことになると思って、質問をしませんでした。そして、質問をしなかったこともあって、あまり有意義な話を聞けたようには思いませんでした。今回、再びそのような違和感を感じる事態に遭遇しましたが、今回は、さすがに何も言わないのはもったいない、と思い、本論と思われるところについて質問をしました。しかし、結果としては、自分の聞き方があまり要領を得ていなかったせいか、自分が聞きたかった核心には迫れませんでした。ちなみに、自分が聞きたかった核心、というのは、成功例とそうでない例の本質的な差異は何か、そしてその差異に関して良くするために第三者としては何が可能か、ということです。
ちなみに、ここまで述べたことは、基本的には講師として来てくれた方への批判になっていると思いますが、言うまでもなく、最も責任を負うべきは、担当教員です。自分にとってこの先生の担当する科目を受講するのは初めてでしたが、講師に対して、やけに低姿勢なのが目に付きました。授業に関してその姿勢を評価するとき、講師の人に気持ちよく話してもらうための戦略的(意識的)行為であったとするなら、それはそれで構いませんが、それでも結果責任は免れないと思うので、今回の講師の講演内容を批判的に反省するなら、次回以降は戦略を見直した方がよいでしょう。ただ、そもそも、そのようにおだてて人を動かそうとする人を、個人的には好きになれないかなぁ、という気がします。低姿勢さが、無意識的な遠慮であったなら、担当教員としてその科目を運営する以上、もっと内容に責任を持つことを考えるべきだと思います。担当科目で外部から講師を呼ぶとしても、それはあくまでその科目の講義内容をより充実・向上させるために呼ぶのであって、その講師の機嫌を取ることが優先されてしまっては、元も子もないでしょう。