2009-01-20

アラビア語の翻字ができない

アラビア語をASCII文字で表現しようと思ったのですが。この英泰辞典のような辞書がないかなぁ、と。

しかし、無いですねぇ。英語アラビア語辞典はあるのですが、アラビア語のASCII文字表記が無い。日本語アラビア語辞書もあった。しかし、アラビア語のASCII文字表記が無い。ローマ字でアラビア語を入力するとアラビア文字に変換してくれるサービスもあった(Qur'an TransliterationYoolki!)。しかし、そもそもその言葉のローマ字表記がわからなければしょうがない。英辞郎でなら幾つかヒットするけども、アラビア語の語彙をまとめて検索する機能はないし・・・。

諦めかけたところで遭遇したのが、Wiktionary英語版Category:Islam には、イスラム教関係のみとは言え、アラビア語語彙の英語綴りが出ています。これを参考にしようかな。

2009-01-16

誰を思い浮かべるか

深澤真紀の平成女子図鑑【3】「スイーツ(笑)女子」と「モテない系女子」

モテない系女子だって。誰を思い浮かべますか。日本のALSAにも、そういう人が結構いた気が。それも、どちらかというと自分の上の世代よりは下の世代の方が、そういう人が多かった・・・?そういう時代なのかな。

2009-01-10

居酒屋に子連れ

海鮮楽屋福福屋つつじヶ丘店へ行った。店自体は悪くなかったし、店員さんも感じがよかった。けど。

もう夜の11時だと言うのに、小学生かそれ以下くらいの子供連れで来ているお客さんがいた。大人が六、七名くらい。きっと家族ぐるみでの付き合いなのだろう。

その時自分と一緒にいた友人は、親とオールでカラオケに行ってて、さっき帰って来たの。などと朝学校で言っている小学生もいる、と言っていた。お母さんは?と聞くと、今は家で寝てる。という状態だったようで。今はそういう時代なのかなぁ、とも思います。

いずれにせよ、居酒屋に子連れで来ている人達を見て、自分はこう思ってしまいました。この親、何考えてんだろう?子供がかわいそう。この子たち、将来ろくな大人にならないぞ。

しかし、よく考えてみると、絶対に子供にとって悪い、とは言えないのかも知れません。確かに、夜そういう形で親の遊びに付き合わされることで、睡眠時間なり、勉強時間なり、自分達自身の遊びの時間が減るでしょう。というか、夜11時です。子供は、寝る時間でしょう。でも、そういう時間が減ることのデメリットは何か。遊びの時間が減る?周りの子供もみんなそうなら、条件としては同じでしょう。勉強時間が減る?別に勉強して成績が上がることばかりが人生を充実させる方法ではない。問題は、睡眠時間かな?いずれにせよ、そんな経験を、うまく生かして、より視野の広い大人になる、そんな可能性もあります。・・・いや、あるといいなぁ。

大事なことは、何か。親の遊び(付き合い)に付き合わされるという体験は、自分が大事にされてないという認識につながる恐れも、あるかも知れません。いや、その認識は正しいんだろうと思うけども。そんな育てられ方をした子は、やっぱり、かわいそうなのでは?

2009-01-08

宣伝・演説の場になっているのでは?

地域連携と地域競争力という科目を受講しています。シラバス政策担当者や自治体関係者を含む講師によってと書かれている通り、ときどき、政治家とか、役人とか、企業経営者の人が来て話をしてます。

それで、科目の趣旨と異なる話が多過ぎるのではないか、という違和感を感じてなりません。それは、たまたま講師として来ている人の思想・信条が自分と違うからなのかも知れません。しかし、それにしても。関係のない話、会社の宣伝や政治演説のような話が多過ぎませんか。

ただ、これだけでは個人的な違和感というレベルに留まってしまいます。もっと、何かしら根拠をもって、会社の宣伝や政治演説のような話を授業でするのはおかしい、と言えればいいのですが。

例えば、去年のこの時期、シルマン・ハイテクベンチャー講座という科目を受講していました。その講義は、毎回がベンチャー企業の宣伝で、その点に関して言えば地域連携と地域競争力の目じゃありません。でも、当時、そのような宣伝が講義の中でされることについて、今感じているような違和感は、感じなかったように思います。その、違和感を感じなかった、ということに、何かしらの原因を求めるとしたら、それはどのようなものになるでしょうか。

科目の趣旨と異なる話はよくない、と言ってしまうと、所謂余談はどうなるんだ、となります。即ち、そんなこと言ったら、余談もなくせということになってしまうが、それでよいのか、それではつまらないじゃないか、と。それで、なくなってほしくない余談を考えてみます。果たして、どんな余談が、余談として優れているんでしょうか。

自分の、一つの答えは、こうです。比喩的に、その話の本論につなげられる余談こそが、優れた余談なのではないか。もちろん、聞いていて(普通に本論を話すよりも)面白い、ということが前提となりますが。本論につなげられない余談で必要性が認められるものは、せいぜい、聴衆の集中力を保ち関心を保つために行われるもの、ではないでしょうか。あまりに話が順調なために聴衆が眠そうだったら、あえて(本論とは無関係に)順調じゃなくしてみる、というようなことが技法としてあり得るなら、それこそが聴衆の集中力保持のための余談だと思います。

結局、この科目に講師として来てくれた方々のうちの何名かは、自分にとっては本論とは無関係に思える話が長く(又は時間的には長くなかったとしてもそちらの方が熱がこもっていたので印象的であり)、よって本論としては勿論余談としても評価できない話が多く、その講演全体を対時間で評価するならば、低評価をせざるを得ない、ということになりましょうか。

尤も、その講演が、評価できない部分があったことを補ってあまりあるほど素晴らしい部分があった、ということならば、話は違ってくるのかも知れませんが。その点、一回目にこのような違和感を感じた時は、質問する気も起きなくて、というよりも、質問をすること自体が消極的にその講演内容に(そのような講演内容をその場でするということに)賛意を示すことになると思って、質問をしませんでした。そして、質問をしなかったこともあって、あまり有意義な話を聞けたようには思いませんでした。今回、再びそのような違和感を感じる事態に遭遇しましたが、今回は、さすがに何も言わないのはもったいない、と思い、本論と思われるところについて質問をしました。しかし、結果としては、自分の聞き方があまり要領を得ていなかったせいか、自分が聞きたかった核心には迫れませんでした。ちなみに、自分が聞きたかった核心、というのは、成功例とそうでない例の本質的な差異は何か、そしてその差異に関して良くするために第三者としては何が可能か、ということです。

ちなみに、ここまで述べたことは、基本的には講師として来てくれた方への批判になっていると思いますが、言うまでもなく、最も責任を負うべきは、担当教員です。自分にとってこの先生の担当する科目を受講するのは初めてでしたが、講師に対して、やけに低姿勢なのが目に付きました。授業に関してその姿勢を評価するとき、講師の人に気持ちよく話してもらうための戦略的(意識的)行為であったとするなら、それはそれで構いませんが、それでも結果責任は免れないと思うので、今回の講師の講演内容を批判的に反省するなら、次回以降は戦略を見直した方がよいでしょう。ただ、そもそも、そのようにおだてて人を動かそうとする人を、個人的には好きになれないかなぁ、という気がします。低姿勢さが、無意識的な遠慮であったなら、担当教員としてその科目を運営する以上、もっと内容に責任を持つことを考えるべきだと思います。担当科目で外部から講師を呼ぶとしても、それはあくまでその科目の講義内容をより充実・向上させるために呼ぶのであって、その講師の機嫌を取ることが優先されてしまっては、元も子もないでしょう。

2009-01-05

「イベント紹介」が軽々しすぎませんか

またまた、うちわネタかつ小言ネタです。こんなメールがwalsaのメーリングリストで流れました。公開しても差し支えなさそうなところを引用します

日韓学生会議という学生団体さんから、イベントの招待を受けました☆他団体と交流ができる貴重な機会なので、参加したぃ!って人はどんどん参加しちゃいましょう! なお、このイベントは1月10日ともう日にちが迫っています。なので、急で申し訳ないのですが、参加する方は1/7までに私(中略)に連絡下さい。以下、日韓学生会議さんからの招待メールです☆ *********** 新年明けましておめでとうございます。 突然ですが、1月10日にワークショップ企画を開催します! 「スポーツナショナリズム」をテーマに議論を行った後、実際にスポーツで体を動かして交流をしてしまおうというものです。日韓学生会議、日中学生会議、日韓学生フォーラムの共催で、たくさんの人とお会いすることを楽しみにしています。 1月10日 13:00~開会式 13:30~ワークショップ(プレゼン&ディスカッション) 14:30~移動→スポーツ(ドッジボール予定) 17:00~閉会式 18:30~交流会(参宮橋居酒屋にて) 上記プログラムはすべて参宮橋近辺で行いますが、場所の詳細は申し込みいただいた方にあらためてお知らせいたします。友人知人お誘い合わせのうえ、どしどしご応募ください。飲み会の実費以外、会費は無料です! 読んでいただいてありがとうございます。新年明けましておめでとうございます。 突然ですが、1月10日にワークショップ企画を開催します! 「スポーツナショナリズム」をテーマに議論を行った後、実際にスポーツで体を動かして交流をしてしまおうというものです。日韓学生会議、日中学生会議、日韓学生フォーラムの共催で、たくさんの人とお会いすることを楽しみにしています。 1月10日 13:00~開会式 13:30~ワークショップ(プレゼン&ディスカッション) 14:30~移動→スポーツ(ドッジボール予定) 17:00~閉会式 18:30~交流会(参宮橋居酒屋にて) 上記プログラムはすべて参宮橋近辺で行いますが、場所の詳細は申し込みいただいた方にあらためてお知らせいたします。友人知人お誘い合わせのうえ、どしどしご応募ください。飲み会の実費以外、会費は無料です! 読んでいただいてありがとうございます。

さて、このメッセージはALSA Japanの役員として発せられていますが、それは、何も肩書きを名乗らずに言う時に比べて、ALSA Japanを代表している性格が強くなりそうな気がしませんか。では、この企画の成否などに、ALSA Japanは果たして責任を持てるのでしょうか。

そもそも、外部からイベントの招待を受けたら、どんな場合でも会員に転送するのでしょうか。(或いは、するべきなのでしょうか。)そうでなければ、会員に転送する際には、役員として、何らかの選別をするのでしょうか。もし選別をするなら、今回の告知がその選別を通った理由・根拠は、何なのでしょうか。せめて、最低限、その理由・根拠の提示をしてほしいと思ってしまいました。

2009-01-01

現住所か実家の住所か

年賀状を書いていて、はて、自分の住所は、今の住所を書くべきか、実家の住所を書くべきか、と立ち止まってしまいました。というのも、今の住所からは、数ヵ月後には引っ越すことが確実な一方、実家の住所に住まないだろうということもほぼ確実だからです。試しに、ウェブ検索をしてみました。

現住所派の理由
一人暮らしを止めて実家に戻ったのかと思われるから。
住所録としての意味があるから。
実家住所派の理由
早いうちに見れた方が嬉しいから。

現住所派の一つ目の意見で言われているようなことは、自分はあまり気にしないかなぁと思いつつ、ふむふむと頷きながら見ていました。ただ、自分自身を振り返ってみると、自分の住所書きに込める意味は、年賀状はここに送って!ということであるように思います。

日本郵便では、転居・転送サービスというサービスをしてくれるようなので、本来であれば、どちらの住所を書いたところで、届けてもらいたい住所に変更があった場合は、このサービスに申し込めばよいだけです。ところが、ここでは挙げませんでしたが、転居・転送サービスが効かない、というような声が、幾つかウェブ上で見つかりました。つまり、本当は新住所に転送してくれるはずのところ、旧住所に誤って配達されてしまう、ということです。

そのような、転居・転送サービスに関するミスの可能性があるとすると、もし現住所宛の郵便が、転送が効かずにそのまま現住所に届いてしまうことがあり得ます。そうなると、その郵便を受け取るのは同じ住所に次に住む、自分にとっては見ず知らずの人であり、一度その人のところへ届いてしまってから、自分のところまで届けられてくるかどうかは、かなり怪しいところです。一方で、実家なら、間違えて転送が効かなくても、その手紙が着くのは実家であり、いつかは自分が再び訪れた時にでも見ることが可能でしょう。

というわけで、今年は、とりあえず実家の住所を書くことにしました。