今朝の朝日新聞の声欄に、今年の日本シリーズ第三戦九回裏の鶴岡選手のプレーを批判するような投稿がありました。つまり、自分(自軍)に有利な判定をされたとしても、それが誤審であるとわかっていたなら、そう申告すべきであり、それがフェアなのではないか、ということです。(だったと思います。)
自分は、それに共感できる部分もありながら、でも、それはスポーツには求めても仕方のないことなのではないかと思っています。というのは、スポーツにおいては、対戦する両軍は勝利やより良い結果を求めて仁義無き争いを繰り広げる当事者であり、だからこそ、審判の権限は絶対であって、競技のルールとそれを体現する審判の権威が失われてしまったら、そもそも試合自体が崩壊してしまうから、です。これは、サッカーでも同じだと思います。フェアプレーとは、その競技の規則を遵守すること、そしてその規則の表れとしての審判の判定に従うことを指すに過ぎないのではないでしょうか。
ここで、自分が比較したいのは、相撲を含む武道です。これは推測に過ぎませんが、武道では、当事者同士が礼節を守って主体的に決着を付けるのが本来であり、審判役は、あくまでそれを助ける役割を果たすに過ぎないのではないでしょうか。ただ、当事者同士が礼節を守って、というのは、礼節についての感覚が共通であるからこそできることであり、逆にスポーツでは、そうではないからこそ、競技としてのルールこそが唯一依るべきものとなり、それを体現する判定(審判によるもののみならず、録画判定なども含めて)の絶対性が強調されるのではないでしょうか。
ちなみに、サッカーでは、相手が倒れたりしたら一度ボールを外に出し、プレー再開後には相手側にボールを渡す、というような暗黙の了解がありますね。これは、ここで言う武道の精神にも通じると考えられるかも知れません。しかし、明確に違うのは、審判役による判定が関わっていない点です。相手選手が倒れたためにボールを外に出しただけであり、本来は相手がボールを持っていたのだから、プレーを再開する際にも相手ボールで始めて下さい、と審判に進言するわけではないのです。やはり、スポーツでは、自分・自軍に不利なことを審判に申告すべき(そして審判もそれを尊重すべき)、という美学は存在しないのではないかと思います。むしろ、もし実際にそのような申告があった場合には、何かしら裏の意図があると考える方が状況理解としては妥当なのではないでしょうか。武道のスポーツ化、ということも言われていると思いますが、その本質(の一つ)は、こういうところにあるのかも知れないと思います。
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