追いコンの、参加者の一覧が届きました。公開したらまずいのかな・・・。ま、大学・学年ごとの数値なら問題ないでしょう。
LC | 一年 | 二年 | 三年 | 四年 | 合計 | 比率 |
---|---|---|---|---|---|---|
早稲田大学 | 0 | 6 | 5 | 8 | 19 | 40% |
中央大学 | 0 | 3 | 11 | 2 | 16 | 33% |
東京大学 | 1 | 1 | 0 | 3 | 5 | 10% |
一橋大学 | 0 | 1 | 0 | 3 | 4 | 8% |
立教大学 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4% |
東海大学 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 4% |
合計 | 3 | 11 | 17 | 17 | 48 | 100% |
比率 | 6% | 23% | 35% | 35% | 100% |
というわけで、一年生が殆どいません。三人というのも、あまり言うと本人に失礼かも知れませんが、次のSTの実行委員長だったり、新規LCの立ち上げメンバーだったりと、まぁ自分が以前OBOG交流会に参加した時のように、業務上の使命を帯びて参加していると勘ぐられても仕方のない布陣です。自分に言わせれば、純粋に自発的に参加している一年生はゼロ、です。
さて、この状況を見て、自分は直感的にあり得ない、だめだ、と思ったわけですが、それはなぜなのでしょうか。そもそも、追いコンとは何か。追いコンとは、追い出しコンパ。卒業生に感謝を表し、気持ちよく送り出すためのもの。だから、卒業生を知っている人が集まって、昔を懐かしみつつ盛り上がるもの。果たして、そうなのでしょうか。
知っている人同士でやりたいなら、わざわざALSAという名前を使ってやる必要はないでしょう。送り出したいと思う下級生が、送り出したいと思う卒業生に対して、私的に開けばよいでしょう。その方が気持ちも伝わる。では、なぜそうしないか。一緒にやった方が費用が抑えられるから?本来私的な行事を、費用を抑えるためにALSAの行事として行うのは、果たして適切なのでしょうか。私的な追いコンばかりだと、卒業生同士で呼ばれる人とそうでない人の格差が生まれてしまい、かわいそうだから?それは確かに、重要な問題です。しかし、制度的にそういう配慮をし始めると、肝心の気持ちが失われ、行事が形式化するのではないでしょうか。では、追いコンは、個人的な送り出したいという意思の集合体ではなく、ALSA日本という組織として卒業生を送り出す、という場なのでしょうか。そうなのかも知れません。しかしそれなら、二年生と並んで実質的に現在のALSA日本の活動の中心を担っている一年生は、やはり参加すべきでしょう。
しかし、個人的な意思の集合としてにせよ、ALSA日本という組織としてにせよ、卒業生を送り出す、というところに本質的な目的を設定するのには、やはり違和感があります。卒業生と一口に言ったって、その彼らがALSAに対して行ってきたことは確実に功罪があるわけで(罪の部分に関して転んでもただでは起きぬとか災い転じて福となすを実行するのは後輩の役割かも知れませんが)、人によっては負の影響ばかり、という人もいないとは限りません。でも、そういう人だからと言って、排除すべきではないですよね。そういう人に対して、感謝して送り出す、というのは、考えようによっては、嫌味ですらあります。そうなると、追いコンの真の目的は、実は、卒業生を追い出すことではないのではないでしょうか。
こう考えてみてはどうでしょうか。組織としての文化・歴史を継承していく場、と。もちろん、組織としてと言っても、それはつまるところ人のつながりではありますが。だいたい、(自分自身はその慣習にはあまり賛成しませんが、一般的には)上級生は、普段のALSAの活動に来なくなる人が多いですね。実際、仮に多くの上級生がいつまでも活動に参加し続けたら、それはそれで鬱陶しいものなのでしょう。しかし、下級生としては、そんな上級生からも、学ぶべきことは、きっとあるはずです。それに、人脈は、そういう上級生と知己を得ることで、さらにその上へ続いていくわけですから。だから、上級生がALSAの活動に参加することの長所・短所を比較衡量した結果、彼らが卒業していなくなる前に一度くらいは、会う機会を設けてもいいんじゃないか、ということなのではないでしょうか。会議などではなく飲み会といううちとけた場でもあるし、年に一回くらいなら、上級生との付き合いが面倒くさくても我慢できる範囲になるのではないか、今まではそうだったのではないか、と思います。記憶が美化されているだけなのかも知れませんが。
いずれにせよ、今回の件は、自分が以前述べた、通常活動への上級生の参加が回避される傾向があることの裏返しである気がしてなりません。元はと言えば、CMが二月九月に変更になって、上級生が参加しにくくなったり、役員選挙に一年生が出にくくなったことも関係してくるかも知れません。かれこれ三年も前に議論された事がこんな形でじわじわと影響力を発揮してくるのかと考えると、ある意味では感慨深いものがありますが、それは、自分が初めから理想と考えていたALSA像から実際のALSAが遠のいていく過程なのかも知れない、と考えると寂しくもなります。
まぁ、無事卒業も決まったらしいことですし、自分が過去に所属した組織のことをじくじく考えるのは、そろそろやめにしましょうか。自分は、高校の時も、そうやって過去から卒業してきたはず。もちろん、自分が直接的に関わる可能性がある場合には、それなりの意思表明をしますけれども。それが、今回に関しては、今のままでは、追いコンには参加しない、ということです。
2 件のコメント:
うむ。厳密に言うと人の利害のつながりではないかと、組織ね。
コメントありがとうございます&返信遅れてすみません!!
今回は、コメント自体は察知していたのですが、ばたばたしていて、時間をなかなか取れませんでした。
組織が人の利害のつながりであるというのは、興味深いご指摘です。そもそも、人のつながりであることが人の利害のつながりであることと等値である事によって組織が人の利害のつながりであると言えるのか、或いは人のつながりの中には人の利害のつながりではないものも存在するけども、組織に関しては人の利害のつながりである、ということなのか。
精神的な面まで考慮に入れるなら、人のつながりが人の利害のつながりと等値であると考えてもよいような気もします。
ただ、利害という言葉の意味に精神的なものも含め始めると、そもそも合理的人間観を設定する意味って・・・。合理的人間観が物質的なもののみを指すなら、精神的な要素と対比して考えられますが、精神的なものも含むなら、それと対比すべきものは、無意識的・本能的なものになるのでしょうか。
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