2012-04-30

サイエンス・コミュニケーション

最近、

科学技術コミュニケーション活動の推進ということで、政府主導で、科学技術に関する一般の理解を深めようとする取り組みがなされている。これは、大変結構なことで、科学技術に関する知識を適切に捉え、柔軟に活用できるよう、国民の科学技術リテラシーの向上を図ることは、重要である。

第4期科学技術基本計画の中では、具体的な推進方策として、以下のようなものが挙げられている。

  • 科学技術の現状、可能性とその条件、潜在的リスクとコスト等について、正確な情報を迅速かつ十分に、国民に提供していくよう努める。
  • 国民との間で、こうした問題に関する多層的かつ双方向のリスクコミュニケーション活動を促進する。
  • 地域と共同した科学技術関連のイベントの開催、科学技術週間を活用した研究施設の一般公開、サイエンスカフェの実施等を通じて、双方向での対話や意見交換の活動を積極的に展開する。
  • 各地域の博物館や科学館における実験教室や体験活動等の取組を支援する。
  • 科学技術に関わる様々な活動を行う団体等を支援する。
  • 大学や公的研究機関における科学技術コミュニケーション活動に係る組織的な取組を支援する。
  • 一定額以上の国の研究資金を得た研究者に対し、研究活動の内容や成果について国民との対話を行う活動を積極的に行うよう求める。
  • 大学及び公的研究機関が、(中略)個々の活動によって培われたノウハウを蓄積するとともに、これらの活動を担う専門人材の養成と確保を進めることを期待する。
  • 研究者の科学技術コミュニケーション活動参加を促進するとともに、その実績を業績評価に反映していくことを期待する。
  • 学協会が、研究者による研究成果の発表や評価、研究者間あるいは国内外の関係団体との連携の(中略)機能を強化するとともに、その知見や成果を広く社会に普及していくことを期待する。
  • 研究者コミュニティーの多様な意見を集約する機能を持つ組織が、社会と研究者との橋渡しや、情報発信等において積極的な役割を果たすことを期待する。

では、

このような推進方策を実施すれば、本当に、今までよりも国民の科学技術リテラシーの向上を図ることができるのだろうか。

例えば、専門性が高いが、直接個人顧客の物質的利益につながるような活動をしない、という意味で、スポーツや芸術の分野では、状況はどうだろうか。科学技術におけるノーベル賞のように(?)、広く知られた競技会や表彰があり、プレーヤーの評価においては、そのような競技会における成績が、最も大きな比重を占めている。しかし一方で、順位付けだけでは測れない価値というものがあり、そのようなものは主に、専門家の解説を通じて、素人にも伝達される。例えば、パスセンスは巣晴らしい、グラブ捌きが一流、歌唱力が抜群、など。特にスポーツでは、素人目に見ると簡単になされていることでも、実際には難しい、ということもある。

このような、専門家による解説を通じて、より多くの素人が、わかった気になる。これこそすなわち、裾野が広がる、言い換えれば、一般のリテラシが向上している、ということなのではないだろうか。これは、スポーツに関しては、実際に行われていることである。科学技術においても、行われるようになる、もしくは今よりももっと行われるようになることが、国民の科学技術リテラシーの向上のために、重要なのかも知れない。

では、

スポーツで行われているような、専門家による、専門家についての解説を、科学技術についてもより広く行われるようにするには、何が必要か。一つの観点として、その役割を担う専門家とはどのような人々か、ということを考えてみたい。

スポーツにおいては、はじめから解説者としてのキャリアを歩む人もいるだろうが、専門家(プレーヤー)としての活動を終えてから、解説者として本格的な活動を始めることも多いように思われる。むしろ、狭義の専門家(プレーヤー)として活動できるのは限られた期間であり、その期間が過ぎた後のキャリアの一つとして期待され、また実際にニーズとマッチしたからこそ、解説者というある種の職業が実現しているのだろう。特に、元専門家である解説者の中でも、評価の高い人は、単に専門家時代の知識・経験のみに拠るのではなく、専門家(プレーヤー)としてのキャリアを終えた後に、より広い視点で関連する情報を収集・分析しているのではないだろうか。無論一方で、例えばサッカーワールドカップやオリンピックなどの特別な大会など、現役の専門家が、専門的技術を一般向けに解説する役割を果たすこともある。

スポーツにおける解説者の役割と同様な役割を、科学技術分野では、どのような人が、果たしているのか、果たしていないのか、それとも、そもそもそのような概念で語るべきではないのか。福岡伸一さんや、茂木健一郎さんなんかは、科学技術の解説者としての役割を、(部分的に?)果たしているように見える。もっと、そのような解説者が活躍できる場を広げ、科学技術の解説者という役割が市民権を得るようにし、そして(良い意味で)評価していく、ということが、重要なんじゃないだろうか。ひょっとして。

2012-04-29

「自主性」のすすめ

何のために生きているのか。それがわからなくなってどうしようもなくなった時、自主性自主的にという言葉が、解決の糸口になるかもしれない。

自主的とは

辞書によると、他からの指図や干渉によらずに、なすべきことを自分の意思に基づいて行うさま。このなかで、注目したいのは、なすべきことという部分と、自分の意思に基づいてという部分です。

まず、第一の仮説。何をなすべきか、という問いに対する答え、そしてその優先順位や可否の判断の結論は、複数あることが多いのではないだろうか。例えば、当人の立場から考えるのか、周囲の立場から見るか、またどのような考え方に立つか。なすべきこととは何か、という問題から生まれてくる葛藤もあるでしょう。

もう一つの、自分の意思に基づいてという点も、当たり前のようで、なかなか難しい。極論をすれば、自律神経系に制御される行動以外はすべて、随意なのだから、自分の意思に基づいているんじゃないかとも言えます。

さて。

以上のようなことを踏まえると、自主的という言葉を、もう一歩踏み込んで定義できるんじゃないか、というのが、第二の仮説です。即ち、(○○に対して)自主的であるとは、周囲の(○○の)期待することを、特に、それに従わざるを得ない状況でも、あたかも自らの独立した意思によるかのように行動すること

例えば、自主練自主トレ。訓練の量としては必要と思われているものの、何らかの事情によって、強制したり制度化したりするのが難しい場合に使われたりしていないか。自主規制は、必要と思われる規制を、あくまで強制されているわけではない形で実施することなのでは。

では、自主的の何が善いか

一つには、周囲の期待に応えるわけだから、周囲との関係が円滑になる。さらに、自分の意思に基づいて行動していることを自覚することで、個々の行動に前向きに取り組めるようになり、責任感や行動の改善にもつながっていく。周囲から見て良い人に見える、という意味では、自主的であることは、重要なことであるように思えます。

一方で、もちろん、自主的に行動することには、難しい点もあります。まず、周囲が自らにどのようなことを期待しているか、理解しなければいけない。その上で、自分というものを、をある程度抑え、周囲の期待に合わせていかなければいけない。さらに、周囲から半ば強制されているように思われることでも、人のせいにするのではなく、あくまでも自分の意思で行うと考えるように、自らの心をコントロールできなければいけない。言うなれば、賢さ、冷静さ、そして強い心が必要なわけです。

何のために生きているのか

自主的である、ということには、ある程度の難しさがあるとは言え、何のために生きているのかという問いへの答えを探す上でも、有力な手がかりになるんじゃないか。そのように思うわけです。

まず、人は、強制的に、生まれる。そして、生き続けることを、(半ば)強制される。親戚関係も、自らは選べない。生まれる時期や場所にしても、然り。そんな中でも、あたかも自らの意思でそのような条件を選んだかのように考え、前向きに振る舞い、生きること。ある意味では、究極の自主性と言えるかも知れません。