2009-09-27

サッカーを観戦しました

カシマサッカースタジアムで、J1第27節鹿島対名古屋戦を観戦してきました。

試合自体の感想は・・・

会場に到着したのが前半30分くらいで、実際に観戦できたのはほぼ後半のみ、という感じでしたが、何ともお粗末な試合でした。後半、自分の席からは新井場選手がよく見えましたが、守備ではマークに付ききれていない、攻撃でも位置取りが良くなかったように思えました。遠いサイドでも、タッチライン際でボールを収められていない場面が何回か見られましたし、中央は中央で、攻撃にアイデアがない感じがしました。グランパスの方でも、巻佑樹選手の動きなどは、これでいいのかなぁ?という感じもありましたが、決めるべきところで決めた、ということでしょう。実際、この試合でアントラーズが勝つとしたらセットプレーか相手のミスで点を取って、ということしか考えられませんでしたが、それで4点(以上)も取るのは、不可能でしょう。

ところで、最初に、後半の新井場選手のプレー位置に近いところにいたと書きましたが、実は、いた場所はアウェー側サポーターズシートだったのです。一緒に行ったもう一人がグランパスのファンだったのでそうしたわけですが、実際、ホーム側サポーターズシートより空いており、より近いところで落ち着いて見られたので、結果オーライだったのかなぁ、というところです。サポーターは12人目の選手という意味では、グランパスの12人目の選手の見かけを大きくするのに、ちょっぴり貢献してしまったかも知れない、というのと、逆に、自分の会話での発言が、グランパスのサポーターの集団としての雰囲気に水を差してしまったかも知れない、というのも、なくはないのかも知れませんが・・・。

往路

それはそうと、会場までは、自転車で行きました。経路は、以前(2006年5月頃)鹿嶋市街へ行った時とほぼ同じで、大まかには、環七通り水戸街道(青戸八丁目から松戸隧道先まで)、千葉ニュータウン、利根川(印西市街の東外れ「木下東」から水郷大橋の先「篠原口」まで)、国道51号を通りました。

千葉ニュータウン内の国道464号では、一人が歩道を走っていたところ、国道16号との交差部分で、方向を見失ってしまい、進路を変更するということもありました。常々感じることではありますが、つくづく、(日本の)道路は、自動車中心にできているなぁ、と思います。しかし、けがの功名と言うべきか、進路変更によって通ることになった印西市木刈では、梨の直売所のおじさんに梨を一ついただきました。それが、とてもおいしく、感動ものでした。

その後、利根川の土手を走る部分が30キロ以上ありましたが、景色が変わらないこと、風が強いこともあってペースがだいぶ落ちました。時速10キロにも届かないペースだったでしょうか。結局、鹿嶋市内にようやく入ったあたりで試合開始時刻を迎えることとなりました。

そして、帰り・・・

さすがに125キロの道のりを一気に自転車で走破するというのは、いくら坂道が少ないとは言っても、馴れない人には過酷でした。一人が、帰りの自転車行を断念したため、対策を考えることにしました。まず考えたのは宅配便で自転車を自宅へ送ること。しかし、宅配便の集配所は近くにはない上に24時間営業はしていないだろうし、コンビニで扱ってくれるのかどうかもわからない。そこで、レンタカーで運ぶ、という案が浮上しました。幸い酒を飲んでいなかったので、結局、自分が都内へ一度戻って、車を借りて引き返してくる、ということになりました。ニッポンレンタカー秋葉原営業所に着いたのが0時40分頃、日産・キャラバンを駆って出発。ほぼ自転車での往路と同じルートで鹿嶋へ向かい、神栖市内のネットカフェで合流したのが3時頃。全線一般道で、この時間で着きました。鹿島神宮駅前へ戻り、自転車を回収してから、再びほぼ同じ経路で東京へ向かい、無事車を返したのが、6時40分頃。交代で運転しました。松屋で朝食をとり、解散。おつかれさまでした。

2009-09-05

自然科学研究機関の位置付け

徒然なるままに、自然科学研究機関の位置付けを考えてみています。社会科学・人文科学の分野にまで応用・連続できるのかどうかわからないので、とりあえず自然科学分野を念頭に置いて考えてみます。大雑把で抽象的なので何を言っているのかわからないと思われるのが普通かと思いますが、ご意見をいただければ幸いです。

両軸の定義・特徴

  1. 分野融合的⇔分野独立的

    前提として、研究者は、特に何もしなければ分野独立的に研究を行うものだと思います。それは、事務でもそうでしょう。企画系・広報系・経理系・庶務系・知財系等々、何もしなければ、それぞれの系列内で仕事がつながるのではないでしょうか。それに対して、積極的に働きかけを行うのが、分野融合的であるということです。

    但し、同じ分野融合的と言っても、戦略研究機関総合研究機関ではその性格が若干異なります。前者においては、分野融合として求められることの中身は、組織レベルで、関係する様々な分野の研究を含んでいることです。いや、様々な分野の研究を含んでいることが必要というよりは、下記のように政策目的ありきで組織が存在する以上、それに関係する分野が複数に亘るのが通常であり、その一部を排除すべきではない、という消極的なものです。その中身も、同一の組織内に各分野の研究が含まれれば、とりあえずよいと言えます。

    それに対し、総合研究機関に求められるのは、基本的に全研究分野を網羅することです。つまり、戦略研究機関に比べれば、積極的な分野融合と言えるでしょう。また、分野融合の具体的な内容も、ただ単に一つの組織内に複数の研究分野が存在していればよいというものではありません。組織レベルではなく、研究レベル、研究者レベルで交流をし、触発し合うことが求められます。

  2. 国策的⇔独立的

    この軸は、政府の政策との関係性を強く持つ必要があるかどうか、というのが違いです。関係性が強い場合は、政策によって予算等が上下するでしょうし、そうでなければ、その逆ということです。

    各機関に影響する政府の政策というのは、大きく分けて、二種類あるのではないかと思います。一つは、研究の目的に当たるもの、例えば環境問題の解決や健康長寿社会の実現などです。もう一つは、知的基盤の整備で、国内外で共有する研究基盤として整備される研究施設や、研究に必要な資源の整備等があるでしょう。

    この、国策的か否かの違いは、各機関の業績評価のために用いるべき指標の違いにも表れるものなのではないかと思います。国策的な機関であれば、その国策を遂行できているかどうかが、最優先の評価基準となるでしょう。一方、独立的な機関においては、純粋に科学的な価値を評価することが第一の指標となるべきものなのではないでしょうか。

なお、上記に述べたものを一つの原則として、注意すべき点はあると思いますが、それはまた追って考えます。

組織として

自分の仕事のことはひとまず置いておいて、自分が所属する組織について、考えてみます。やはり、幸か不幸か、大きな変革を求められている状況であるようだからです。

機会があって、自分の持つ疑問として上司に伝えたことが、一つあります。それは、今、自分が見る限りは国としての方向性と現場としての方向性の調整に終始している気がするが、この組織全体としての方向性を示せないものか、ということです。(この通り伝わっているかどうかは、ともかくとして、言わんとしたことは、です。)

確かに、今までになかった、組織内横断的な施策も新たに企画されておりますが、それも、あくまでも予算を獲得するための戦術としての位置付けか、国にとって重要である、という位置付けになっていると思います。自分が考えたいのは、そのような施策が、我々の組織の進むべき方向性の中でどのように位置付けられるのか、ということです。

それに対する応答としては、現在の独法という組織形態では、国としての方向性を実行するのが我々の組織の役割である、という点と、進むべき方向性と言っても、我々の意思で決めるのではなく、我々を取り巻く環境によって柔軟に変えていくものだ、というような点・・・だったと自分は理解しました。

前者については、確かに法律上そう位置付けられているのは間違いないし、建前としては間違っていないと思います。国に対する説明としては、そうなるんだろうと思います。しかし、国とは距離をおいた組織として百年近い歴史を持つ組織が、外部向けにはともかく、内部においても、そのような思考しかできないとしたら、それは悲しいことだと思います。そして何より、それがある(あるべき)という点が、自分がこの組織に入ろうと決断した重要な要素の一つでさえあるのですから。それに、そもそも、「法律」というのは、本質的には、大前提とすべきものではない、と思います。もちろん、日常業務は法律を頂点とする行政法の体系を大前提としなければなりませんが、組織のあり方そのものを考える際には、法律自体も批判的に検討していくことが一般論として必要ですし、時期としても今はそれができる可能性の高い時期になっているのではないかと思います。

後者については、独法に限らず、サークルでも、会社でも、一般論として言えることだと思います。ALSA内でも、同様な議論をどこかでしていたような気がします。現在のところは、自分の考え方は、変わりません。自分たちの組織を取り巻く環境の変化をシュミレーションし、どのような状況になったらどうするという対応策を考えておくことが大事ですが、その対応策の前提となる、組織としての核となる意思は、本質的には、周囲の環境に左右されるものではない、と思います。ALSAの場合は、その本質的な部分を、(明文としては)規約会則として自ら決めていたものが、今の我々の組織では、法律という形で外部的に与えられている、というのが、考えを整理しにくくしている要因の一つでもあるのでしょうか。

ちなみに、前者の議論をさらに進めると、ではその組織としての意思の中身としては、何が適切なのか、自分の考え方はどうなのか、ということになります。組織としての意思を持つというコンセンサスのない中でその中身について議論をするのは、議論を矮小化させているような気もしますが、そうだとしても、自分の具体的な案なしに質問ばかりぶつけるのは失礼なことなので、考えなければなりません。

一つの考え方として、現場の、研究者がより自由に研究でき、実力を発揮できる環境を整えることが組織としての意思だ、というような話も聞いたことがあるような気がします。自分(たち)の仕事の出来如何が人の生活を左右する、という責任を指摘されたことも、これと関係するのかも知れません。確かに、仕事上のミスが人に与える重大性は、十分に認識しなければなりません。しかし、ミスレベルの話ではなく、方向性の話をする際には、決して、今いる人たちのため、というのが最重要な方向性ではないことは、組織外部の人と話していて、気付かされました。しかし、そういう話をすると、中にいる人たちのためではなく国のために組織として方向性を定めるべき、という議論になりがちな気がしますが、そのどちらでもない、第三の道があるのではないか、というのが、ここで言わんとしていることです。

仕事の現状

自分の仕事のことを考えれば、きりがありません。

先日ALSAの後輩と電話で話す機会があったのは自分としても現状を整理するいい機会になりましたが、仕事は遅い、ミスが多い、人の話を聞いていない、聞いたことを覚えていない、等々。

職場の、自分に最も近いところにいる人の話を総合すると、幸か不幸か、自分が今の部署にいるということは、今後仕事が「できる」人間として認められていくか、組織の中で仕事の「できない」人間として諦められるか、大きな境目にいるような気がします。

もちろん、仕事が「できる」人間でなくとも組織の中で居場所を見出していくことはできるだろうと思いますが、今の自分の組織の中では、そのモデルとして考えられるような人には会っていない気がします。つまり、仕事が「できる」人間で周囲との関係も良好な人か、仕事が「できない」人間で、周囲との関係も良好でない人か、どちらかしか知らない、ということです。とは言え、まだ一つの部署、半年しか見ていないので、今後自分が進むべき道のよきモデルとなる人物を見出せたら、幸せなことだと思います。

ちなみに、今の自分が仕事が「できない」要素として四点挙げましたが、それぞれについて、ちょっと言い訳してみます。最初の二点については、今までそういうことを考えながら生きてきていなかったので、そのような要素が求められ、それができるようになるとすれば、自分にとってはかなり大きな転換です。その転換をするには、やはり時間がかかる、ということは言えると思います。無論、時間をかければ解決していくことなのかどうか、という点が最も重要な問題なのですが。後の二点については、業務の全体像を系統立てて理解できていないのが理由の一端なのではないかと考えています。これについても、時間が解決する、と考えたいですが、そうなれるかどうか。

いずれにせよ、今の時点では仕方がない、という慰めの言葉を下さる方がいるのはとてもありがたいですが、現実問題として前任者や(似たような業務ラインにいる)同期という比較対象がいて、自分の仕事ぶりが大きく見劣りする、ということは否めないわけで。これが「今のうち」で済めばいいと思います。自分として大事にするものは堅持しつつ、今まで自分になかった要素を付け加えていく苦闘は、まだまだ続きます。